幻の辰巳ダム計画ゴーサイン

 


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県文化財保護審議会の「東岩取水口の水没やむなし」という"意見具申"について
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県文化財保護審議会は文化財の評価・保存を諮問されて教育委員会に建議することが役割であって 辰巳ダム計画の是非や「水没やむなし」といった行政判断する機関ではない。                                          平成12年1月1日  技術士 中 登史紀  

目次

はじめに
「東岩取水口の水没やむなし」結論のいきさつ
学会連合辰巳用水保護対策委員会(仮称)の発足
辰巳用水小委員会の発足
問題を解決するための合同説明会を相次いで開催
「小委員会」の結論、文化財保護審議会の承認と意見具申
(1)正式な諮問を受けず、文化財保護審議会の役割が不明確なまま、事業当事者に!
(2)保護運動と基礎資料調査とが混乱!
渡辺寛氏による行政文書の掘り起こし
(1)正式の諮問も意見具申も無し
(2)「小委員会」で文化財の議論無し
おわりに
【添付資料】辰巳用水審議をめぐる年表

はじめに
 石川県河川開発課が「東岩取水口は貴重な文化財であるので保存するべきである」と知事へ意見具申するのはおかしいのと同様に、文化財保護審議会が「東岩取水口の水没やむなし」と意見具申するのはどう考えてもおかしい。最近の話題で例えていえば、名古屋の「藤前干潟」について、名古屋市が「都市住民の生活を支えるためのゴミ処分地が必要であるので貴重な自然であるが破壊やむなし」と結論づけるのは、自治体の一つの判断であるから理解できないこともない。一方、「貴重な湿地であるが破壊やむなし」と自然の保護に責任を持つ環境庁が結論づけたとしたら、明らかにおかしい。

 石川県河川開発課が下流住民の生命と財産を守るために「東岩取水口の水没やむなし」と結論づけるのは、治水サイドの一つの判断であろう。これに対して、文化財の保存につとめるべき、石川県文化財保護審議会が「東岩取水口の水没やむなし」の結論を出したと言うことは一体どういうことなのであろうか。

 石川県文化財保護審議会は、辰巳用水が文化財であるかどうか、その評価はどうなのか、貴重な文化財とすれば保存するように建議することが任務ではないのか(筆者注:石川県文化財保護審議会は石川県教育委員会に設置され、教育委員会の諮問に応じて、文化財の保存及び活用に関する重要事項について調査審議し、建議することが役割である。)。最終的に、総合的な判断を行うのは、開発と保存の双方の行政を統括する県知事のはずである。どうして、求められている審議内容から逸脱し、権限もないことを決定したのであろうか。あるいは、県知事からの委嘱があったのだろうか。

「東岩取水口の水没やむなし」結論のいきさつ
 このいきさつは、辰巳ダム関係文化財等調査団の作成した『加賀辰巳用水』の序説によって知ることができる。石川県文化財保護審議会委員であり、辰巳ダム関係の委員会の取りまとめ役であった高堀勝喜氏が、その間の事情を詳細に記述している。 『加賀辰巳用水』の序説によると、文化財保護審議会が「水没やむなし」の結論を出さざるを得なかった事情は、あらまし、次のようなものである。

【学会連合辰巳用水保護対策委員会(仮称)の発足】
 辰巳用水研究者が辰巳ダム計画により東岩取水口が水没し貴重な文化遺産が失われるとの訴えを石川県五学会連合に提起したことに始まる。石川郷土史学会などで構成される石川県五学会連合組織の中に、県当局に対して辰巳ダム建設予定地の変更を求めるため、石川県五学会連合辰巳用水保護対策委員会(仮称)(以下、「学会委員会」と称する)が昭和54年12月18日(1979年)に発足した(ただし、石川県地理学会は不参加)。そのときの主たる合意事項はつぎのようなものであった。
・ダム建設に反対するものではない。ダム建設位置の変更を要望するものである。
・辰巳用水を史跡指定するため、用水組合(辰巳用水土地改良区)に理解を求める。
・石川県文化財保護審議会と緊密な連絡を保ち運動を進める。

 用水関係者からダム計画変更の要望を当分保留して欲しいなどの要請があったことから、「学会委員会」は辰巳用水土地改良区代表と2回の懇談を持った。改良区代表は県の計画が最適と意見と主張した。その理由は、ダムから直接に用水必要量が安定確保されること、ダム建設の見返りとして管理費の補償、ダム堤頂を橋替わりに利用できることなどである。

 改良区が県のダム計画が最適と意見を変えなかったので、改良区との折衝を打ち切り、「学会委員会」の代表が県教育委員会に辰巳用水保護を申し入れた。その結果、辰巳用水保護に関する基礎資料を調査研究する「小委員会」を設けること、県土木部が辰巳ダム計画の説明をすることが決まった。

【辰巳用水小委員会の発足】
 昭和55年5月26日の県文化財保護審議会で河川開発課が辰巳ダム建設計画について説明を行った。説明の後、本岡会長の提案で辰巳用水小委員会(以下、「小委員会」と称する)が発足した。P.15に「本岡会長は…・・辰巳用水保護に関する基礎調査のため、審議会に辰巳用水調査委員会を置くことを改めて提案、委員の賛同を得て……」とある。県教育委員会の同意を得たが正式の諮問を受けて発足したかどうかについて明確でない。

【問題を解決するための合同説明会等を相次いで開催】
 以後、「学会委員会」(6月26日、出席者が少ないため懇談会に)を皮切りに、「学会委員会」と「小委員会」の合同説明会(7月12日、7月22日、8月12日、8月25日)、「小委員会」と地元との意見交換会(8月6日)、用水・地元町会代表に対する河川開発課と文化課の説明会(8月27日)、「学会委員会」(8月30日)、地元と両委員会との意見交換会(9月3日)が開催された。議論の内容は主として、辰巳用水/東岩取水口の保存のため東岩取水口地点の上流に考えた複数のダム建設代替案の是非についてであった。いずれの案についても河川開発課は費用が増高する上に県の持ち出し費用が大きすぎること、地元は橋替わりとしては不便になることなどから、当初の計画案は譲れないとした。

【「小委員会」の結論、文化財保護審議会の承認と意見具申】
 最後の結論を出した「小委員会」(9月12日)では、上流ダム案と条件付き案の両論併記の結論であったが、文化財保護審議会(9月22日)で条件付き多数意見案が承認されて、これを審議会の意見として本岡会長が県教育委員会に具申した。

 「小委員会」の両論併記であったが、条件付き水没案としたことを高堀氏はつぎのように記している。「両論を併記したが、多数意見は地元意向も尊重し研究者の保存案との調整をはかる立場から、東岩取入口水没はやむを得ないと判断する一方、かけがいえのないこの歴史的環境が永久に失われることを考えると、ことに対して逡巡せざるを得ない多数委員にかわり、高堀の責任で決断したものであるが、もとより「小委員会」の結論であると述べた。……(条件説明)…、以上をめぐり質疑応答ののち条件付多数意見案が絶対多数で承認され、本岡会長はこれを審議会の意見として具申した。」(p.31)

 さらに高堀氏は「水没やむなし」の結論をどうして出さざるを得なかったのかについても記している。「……設計変更案七案を検討した。しかし、いずれも計画案経費九十八億円に対し、さらに百億円以上を上積みする必要があった。学会は県民にこの百億円をこえる県費もち出しを、納得が得られるように説明できるかどうかが問題であった。」(P.33)とある。また、「東岩取水口を水没させるダム建設が、計画段階で地元と話し合われていた。文化財保護関係者がこのことを知ったときは、開発部局と地元との合意がほぼでき上がり、ダム建設地点は一つの既成事実に近い状況にあった。文化財の事実上の保護者である地元の意向を尊重するという立場に立つわれわれには、当初から計画地点を改めるのは不可能に近い状態であった。ために東岩取水口という、かけがえのない文化財を失う計画を、断腸の思いで認めざるを得なかった。」(p.46)と記している。

 結果論であるが、結局は余計なことに関与して、引くに引けないような状況に陥ったと言うところであろう。文化財保護審議会は文化財の評価をして意見具申すればよいのであり、地元、河川開発課の考えは考えとして、総合的に判断するのは、上位の行政機関のはずである。文化財保護審議会が行政機関でないにもかかわらず、行政の当事者になってしまった。以上のいきさつから、つぎのような問題点が明らかとなる。

(1)正式の諮問を受けず、文化財保護審議会の役割が不明確なまま、事業当事者に!
 正式の諮問を受けたのであれば、何を調査して何を答えればよいのか明らかになっていたはずである。口約束のような曖昧な形でスタートし、目的が始めから不明確であったため、答がトンチンカンになるのは当然であった。役割を逸脱し、行政機関ではないのに行政のことを仕切り、地元、河川開発課から意見を求め、代替案などの調整を始めたことから、事業当事者の立場で行政的なとりまとめをせざるをえないような状況に追い込まれた。
 条件をつければ、費用が増高したり、補償のための各種提案をせざるをえないのは同然であるが、当事者に替わって調整する立場になく、権限もなく、費用の増額など総合的に判断できないものが調整を始めたので事態を混乱させただけに終わった。地元から「上流ダム代替案の場合、地元は架橋が条件であるが責任を持ってくれるのか?」と詰め寄られてもあいまいに答える以外にない。

(2)保護運動と基礎資料調査とが混乱!
 「学会委員会」は保護運動としてスタートしたものであるし、「小委員会」は辰巳用水の基礎資料調査のために発足した。もともと、目的は別のものであり、行うことも別物であったはずであるが、同じように、目的からはずれて行政の代わりに調整役をしてしまった。保護運動としては、辰巳用水を保護するために、文化財の保存と河川改修などの開発事業と如何に両立できるかというところからスタートするべきであり、そうなると、治水のための代替案はダム案にとらわれることはなかったはずである。また、「小委員会」は辰巳用水の文化財的価値を評価するための調査であったはずである。

 石川県河川開発課にとって好都合である、この結論をゴーサインと受け止めて、県民に辰巳ダム計画の理解を求める際の切り札にしてきた。県の説明あるいはパンフレットにもその旨が記載されている。

渡辺寛氏による行政文書の掘り起こし
 このような状況の中で、平成11年(1999)4月から始まった、市民と石川県の意見交換会の議題と一つに「文化遺産問題」が取り上げられたことなどから、辰巳ダム計画に疑問を持つ市民の一人、渡辺寛氏が情報公開のしくみを利用して、過去の文化財論議のいきさつに関する行政文書の掘り起こしを行った。その結果を「辰巳用水」審議をめぐる年表(添付)にまとめている。この作業の中から、つぎのようなことが明らかとなった。

(1)正式の諮問も意見具申も無し
 文化課の説明では三つの公文書1)がすべてで@審議会へかけるため事務当局が作った経過説明資料 A文化課内の供覧資料 B文化庁への報告資料 であるという。やはり、正式に諮問した文書もなければ、正式に具申した文書もなかった。さらに、「水没やむなし」の結論を出した九月二十二日開催の文化財保護審議会の議事録もないという。『文化課内の供覧文書』に、「小委員会として、やむを得ぬものと結論を説明し、審議会としてその結論を了承する」という数行の記述があり、この文書は課長印だけで教育長や次長の印もなかった。事務当局が記録として残すメモ的な内部文書だった。

1)【公開資料・その1】(全部で28枚)
 「昭和55年度第2回石川県文化財保護審議会会議資料提出について(伺い)」
           (起案H55年9月12日 起案者:文化財係長 円山尚三)
【公開資料・その2】(全部で2枚)
 「昭和55年度第2回石川県文化財保護審議会の概要について」
           (起案10月8日 起案者:文化課主事 成谷和宏)
【公開資料・その3】(全部で28枚)
 「文化庁記念物課長あて 辰巳ダム建設計画に係る辰巳用水保存問題について」
           (起案11月17日 起案者:文化課文化財係長 円山尚三)

(2)「小委員会」で文化財の議論無し
 『加賀辰巳用水』の序説でも「小委員会」が文化財の調査した形跡について何も記述がなかった。渡辺寛氏は、改めてすべての行政文書を確認して、「小委員会」が役目を全く果たしていないことを確認した。昭和55年5月26日、文化財保護審議会で辰巳ダム「小委員会」(5名)が選ばれ、その後、「小委員会」は、8月6日に地元代表者と意見交換会をするが、「水没やむなし」の結論を出したと称する「小委員会」までの間に、会議は一度もなかった。小委員会委員が参加した合同説明会でも辰巳ダムの是非の議論に終始した。結局、目的とした会議は一度もなく、最後に「水没やむなし」の結論を出した一度だけの「小委員会」で終わってしまった。

おわりに
 今日まで、河川開発課が辰巳ダム計画が認められたものとして、金科玉条のように掲げ、根拠としてきた文化財保護審議会の意見具申「辰巳用水/東岩取水口の水没やむなし」は、法的には幻のようなもので存在しない。かつ、仮に存在するとすれば、諮問機関の役割を逸脱して行政に介入した、不法な意見具申になろう。行政、行政を補佐する審議会をしっかり監視していないと、果たすべき役割も果たさず、余計なことをした上、行政の都合のよいようにことが運ばれてしまうことがよくわかる。行政、審議会の議論内容を情報公開等の手段によって市民が監視する必要があろう。


添付資料
「辰巳用水審議をめぐる年表」(作成:渡辺寛)
 

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