濱岡屋の買仕切状
――能登・黒島の北前船主・濱岡屋古文書・買仕切状―― |
北前船は、大坂から瀬戸内海を通り、関門海峡から日本海へ、陸地沿いに山陰、北陸、東北、北海道に達する日本海航路を往来し、寄港地で商品の積荷を売り買いして商いをした船のことである。単に商品を運ぶ運送業ではなく、商品の需要、値段などの情報をいち早く収集して取引をした「動く総合商社」であり、莫大な利益をあげることができたという。千石船※1 と呼ばれる木造の帆船を航行させて一航海※2 で千両(現在価格でおおよそ1億円)の利益があったという。 ※1:千石船とは米を千石積むことができる船で、一石が150キログラムなので150トン積むことができる船のことである。 ※2:年に1往復程度。冬期は海が荒れるので航海できない。 黒島は一寒村に過ぎなかったが江戸時代の中期に海運業の先覚者である傑物が現れて、北前船による海運業が発展し、船主や船員の居住地として栄えた。現在は、海運業が廃れてしまったが、黒島地区は伝統的建造物群保存地区として維持されている。 ここで紹介するのは、門前町黒島村の北前船五大船主の一人である濱岡屋の「買仕切(かいしきり)状」である。 仕切状とは、(北前船と問屋との間で)商品売買に際し、品目、数量、代金、手数料などを記した計算書で問屋が客(北前船)に発行する。買仕切と売仕切がある。船主(北前船)が積荷(商品)を買うときに「買仕切状」が出され、逆に、売るときは「売仕切状」が出される。 本買仕切状は、濱岡屋平作(北前船)が長州赤間関の油屋清左衛門(問屋)から生蝋(きろう)を買った取引の計算書である。 ちなみに、生蝋は、ハゼの実から採れる木蝋で、蝋燭の原料、染め物の防染材(蝋結染・ろうけつぞめをするときに染料をはじく)、整髪のための鬢付け油の材料(びんつけあぶら、江戸時代のポマードである、植物油に木蝋をまぜたもので手にとって体温であたためると融けるが、常温になると固まり、髪を固定する)として使用された。需要が高かったので、西日本の各藩は櫨栽培、製蝋、販売に力をそそいだ。 以下は、濱岡屋の「買仕切(かいしきり)状」(北前船の船主が商品を買い付けしたときの代金の計算書)を原本のとおりに活字にしたものである。()書きは当方が参考に付け加えた。 濱岡屋の「買仕切(かいしきり)状」
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能登半島黒島の濱岡屋は、1800年代の前半、寛政、文化、文政のころが最盛期だったという。生蝋は北前船の取引の主要な産品だったらしい。総合商社だったから、寄港する度に注文を受けながら、商品を売買しただろうから、長州の赤間関で買い付けもその一環だったろう。 商品の総額1350万円相当である。利益は3割ほどあったらしいので400万円ほどになる。 この文書を作成した問屋の取引担当の番頭さんは、そろばん片手に6桁の数値の掛け算、割り算をしていたのだから、相当、数字に強くないと勤まらない。仕切状の文字も達筆である。総合商社のエリート社員といったところだろう。 ところで、北前船は千石船と呼ばれるが、千石の米を積み込むことができる。千石の米の商品価値はいかほどであろうか。米の販売価格100文/升で計算してみると、 1石の価格=100(文/升)×100(石/升)×25(円/文)=25(万円/石) 千石の価格=25(万円/石)×千石=2億5千万円 となる。 満載すれば、末端価格ではあるが2億5千万円の商品を運んでいたことになる。一航海で一億円の利益があったというが頷ける。 |
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