アフリカ・ケニア報告


平成11年9月(1999.9)


はじめに
 アフリカというと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。砂漠化が進んで食料が不足し、飢えに苦しんでいる人達が溢れているところ、居住環境が悪く、不衛生でいろいろな病気が蔓延している危険なところなど、悪いイメージが多いのではないでしょうか。ところが、欧米人にとっては、身近な観光地、リゾート地という良いイメージが強いようである。

 筆者は、8月下旬、久しぶりに仕事でアフリカのケニアを訪れた。今回は、4度目、2週間の滞在であった。埃っぽくて蒸し暑く、ヒートアイランドの東京と比較すると、気候の点では別天地である。赤道直下にあるが首都のナイロビは標高が1600Mと高いので年間を通じて温暖な気候である。8月は北半球にある日本と逆で冬である。7月が最も寒く、夜は冷え、暖炉に火が必要である。8月の後半でもホテルの暖炉に火が入れられていた。昼は直射日光はさすがに暑く、車の中は蒸し暑いのですが、事務所で仕事をする分には、ほどよい気候といったところでした。この季節に東海岸のリゾート地へ行くと快適な気分で保養できる。気温は30度前後に上がるが、空は晴れ、岩礁や白砂の海、さわやかな空気に誘われて、欧州から、年間100万人に近い観光客が訪れる。日本人観光客は内陸のナショナルパークを訪れるが、欧米人は東海岸のリゾート地を訪れる方が断然多い。1年を通じてどんよりと寒いロンドンなどの気候を想像すると欧米人がケニアの東海岸のリゾート地が別天地のように思えるのは無理もないと思う。一方、日本人にとっては、日本は四方が海で、季節になると海水浴などで海と親しむことが多いので欧米人ほど、東海岸のリゾート地が魅力的には見えないだろうが。

 東海岸沿いには大型のリゾートホテルが連なっている。12月〜3月ころの夏場が観光シーズンだそうである。4月〜6月の雨期はオフシーズンで、8月はちょっと気候はもう一つであるが(筆者にとってはほどよい気候のように思うが?)、欧米から家族連れが夏休みをかねて多いようである。ロンドンのガトウィック空港からナイロビへの来るフライトでは、家族連れなどで満席であった。
 
 注)ナイロビは、英国がモンバサ(東海岸に位置するケニア第2の都市、古くから軍事的な拠点として砦と港があった。)からウガンダのカンパラへ鉄道を建設(1900年)したときの基地として形成された。

ケニア国ナイロビおよび東海岸の各都市の位置図



筆者の仕事
 土木技術者であり、下水道が専門の筆者の今回の仕事の調査場所は、この東海岸地域である。都市の中の排水施設などの社会生活インフラの整備のために、日本からの援助をすることはできないかというわけである。ケニア政府は、重度の金欠病に罹っているので、どうしても日本からの援助が欲しいのである。(日本政府も600兆円の負債を抱え、金欠病のはずであるが経済新生作に18兆円と大盤振る舞い!?)
 アピール度が高く、費用効果がよくて、役にたつプロジェクトを発掘する。そして、向こうの政府に提案して、日本政府に要請することを薦める。そのために、ケニアの東海岸の各都市を調査し、選定された都市について具体的に取り上げ、優先度の高いプロジェクトとなるかどうかを調査することでした。


旅程
アフリカへは、一旦、ヨーロッパへ行く必要がある。定期便の大半が欧州とアフリカ間を運行しているからである。日本からは、1日がかりの長旅となる。仕事の場合、飛行機の中でいかにグッスリ寝ることができるかが問題である。飛行機に強くない小生などは、失敗すると悪寒をともなった、ゲッソリとした、何とも不快な気分でロンドンに降りなければならないことになる。
 8月12日の午後(13:10)、英国航空で成田を出発し、12時間半後、ロンドンのヒースロー空港に到着。12:30を加算すると、日本時間で12日25:40となるが、時差が8時間(9時間の時差があるが夏時間のため8時間となる。)遅れているので、12日17:40である。航空会社の用意した車でアフリカ便があるガトウィック空港を送ってもらう。ロンドンは夏だというのに気温20度である(曇り)。夜行便でケニアのナイロビへ向かう。12日の夜(22:25)に8時間25分を加算すると、12日30:50で、13日の6:50に相当する。時差が2時間進んでいるので、8:50となる(日本とは6時間の時差)。

BA008/Y NARITA(13:10)→LONDON HEATHROW(17:40) 12H30
BA2069/Y LONDON GATWICK(22:25)→NIROBI(08:50) 8H25
 経費節減の折り、全旅程がエコノミークラスになってしまった。長距離の場合はビジネスクラスでもよかったらしいが、手違いでエコノミークラスになってしまった。ロンドンまでは空いていたので2つのイスの上で横になって寝ることができたのでスッキリした気分で降りることができた。しかし、ロンドンからは観光客などで一杯のため窮屈で十分な仮眠をとることができなかった。着いた日の朝から、フルに仕事でなかなかつらい。

 帰りは英国航空が取れなかったので、ベルギー航空であるサベナになった。8月25日の夜、ナイロビを発ち、ベルギーのブリュッセルで乗り換え、帰国した。ブリュッセルでは、航空会社が用意したホテルで仮眠をとった。空港から、ホテルへはホテルのシャットバスに乗りそこね、タクシーで何とか、たどり着いたが、何回も経験を積むが相変わらずヘマというか、要領が悪い。
SABENA561C NIROBI(23:10)→BELGIUM BRUSSELS(07:05) H
SABENA207C BELGIUM BRUSSELS (15:00)→NARITA(09:50) H


途上国援助について
ところで途上国援助について簡単に紹介する。
(なぜ援助しないといけないのでしょうか)
 8割を占める発展途上国の人々の所得水準は、先進国の21分の1です。政府開発援助は、所得水準の高い国から、所得水準の低い国へお金を還流するしくみです。国連では、GNPの1%を目標にしています。だいたいは、0.2-0.4%くらいで、1%に近いのは北欧諸国である。単に自由競争の原理だけでは、所得格差は拡大するばかりで、この差を少なくするために公的な機関が関与し、公的な資金を環流させる。所得格差を少なくすることによって国際社会の安定を図るという知恵ということなのである。
 1993年現在は、つぎのとおりである。

項目 全体 先進国 開発途上国
人口(億人) 55 11 44
1人当たりGNP $23,442 $1,100


The majority of the world's population, and its land, is located in developing countries.In 1993, the world population stood at 5.5 billion, of whom about 80%, or some 4.4 billion, live in developing countries.Their per capita GNP, however, was less than one-fourth of that in developed countries(1993). Compared to the figures in developed countries ($23,442), per capita GNP in developing countries was only $1,100, which is 1/21 of that in developed countries.

(日本の援助の方針は)
 1992年日本はODA(政府開発援助)に対する明確な理念、原則を明記した『政府開発援助大綱』を定めた。
原則
1. 環境と開発の両立
2. 軍事的および国際紛争助長への使用の回避
3. 開発途上国の軍事支出、大量破壊兵器の開発、製造、武器の輸出入の動向に注意
4.民主化の促進および市場指向型経済導入の努力、基本的人権や自由保障状況に注意

 各国の援助の考え方は、?(勉強不足です!)
  アメリカは、自由主義と人権の思想を普及させるため、
  フランスは、フランス文化の普及させるため、
  イギリスは、植民地時代の国々に対する影響力を保持するため?
  北欧諸国が援助に熱心な理由は?

(政府開発援助ODAの分類は)

政府開発援助(ODA)の分類

政府開発援助→→→→2国間援助→→→→→→→有償資金協力
           ↓                    ↓
           ↓                    →無償資金協力
           →国際機関への出資        ↓
                       拠出等     →技術協力


 日本の政府開発援助(1996年度)は、94億ドル(対GNP比 0.2%)
二国間援助 82億ドル(有償28、無償24、技術協力32、内訳の数値は1996年)
国際機関へ 12億ドル

 国連は、途上国に対する援助比率を対GNP比1%を目標とするように提案している。北欧の国の比率は高い。オランダ(0.81%)、スウェーデン(0.84%)、デンマーク(1.04%)、ノルウェー(0.85%)、フィンランド(0.34%)である。
(ちなみに、1996年の日本の国民総生産GNPは503兆円)

(日本のODA金額の推移は)
 

和暦 西暦 億ドル 億円
58 1983 37.61
59 1984 43.19
60 1985 37.97
61 1986 56.34
62 1987 74.54
63 1988 91.34
01 1989 89.65
02 1990 92.22
03 1991 110.34 14,840
04 1992 113.32 14,354
05 1993 114.74 12,757
06 1994 134.69 13,769
07 1995 147.28 13,854
08 1996 96 10,453
09 1997 94.36


(筆者の仕事は下水道分野の技術協力)
技術協力とは
JICAによる技術協力
 研修員の受け入れ
 専門家の派遣
 技術協力機材供与事業
 開発調査等の実施
 プロジェクト方式技術協力
 ミニプロジェクト
建設省予算による技術協力
 国際交流推進事業
 海外建設技術開発事業
 建設基盤施設調査

海外建設プロジェクト形成推進事業


海外建設事業技術協力

 今回の筆者の仕事の分類は、海外建設プロジェクト形成推進事業の一種に該当する。

(JICAによる専門家や調査団員の派遣数は)
                  表   JICAによる「研修中・派遣中及び累計人数実績」
                                          [1999年8月末研修中・派遣中]


平成10年度(確定99.7.30) 平成11年度 昭和29年からの累計
平均研修中・派遣中人数
新規・継続受入・派遣総数
(内新規)
8月末研修中・派遣中人数 8月末年度実績
(内新規)
(8月末)
研修員 1,659 19,164
(18128)
2,013 4,316
(3198)
168,057
青年招へい 132 1,592
(1592)
0 0 18,194
専門家 専門家 1,771 5,304
(3423)
1,746 2,870
(961)
55,467
内、一般専門家、プロ技専門家等 1,692 5,125
(3349)
1,607 2,702
(913)
55,153
内、シニア海外ボランティア 79 179
(74)
139 168
(48)
314
日系社会シニア
ボランティア
調査団員 490 8,751
(8482)
415 2,944
(2676)
141,617
協力隊員 協力隊員 2,455 3,483
(1170)
2,659 3,271
(812)
20,000
内、青年海外協力隊 2,319 3,331
(1145)
2,527 3,136
(787)
19,853
内、日系社会青年ボランティア 136 152
(25)
132 135
(25)
147
受入・派遣中合計 6,833
移住者 73,437


※ 研修員には、一般研修員、移住研修員、日系研修員を含み、青年招へいを含まない。
※ 専門家には、シニア海外ボランティア、日系社会シニアボランティアを含まない。
※ 協力隊員には、UNV、調整員、シニアを含む。


(青年海外協力隊の情報は)
1999年8月末現在「研修中・派遣中及び累計」人数実績(速報値)

研修中・派遣中 累計
研修員 2,013人 (1954年〜)168,057人
専門家  1,746人 (1955年〜) 55,467人
調査団員 415人 (1957年〜)141,617人
協力隊員 2,659人 (1965年〜) 20,000人
移住者 (1952年〜1995年終了) 73,437人


(途上国援助は難しい!)
 国際協力事業団(JICA;ジャイカ)は、前表に示すように途上国から多くの研修生を受け入れている。研修部門(現在、途上国から毎年7000人の研修生を全国12カ所の研修所で受け入れているそうです。)担当の職員(女性)の話によると、この研修制度も問題があって、毎日、なにがしかの手当と食費が日本円で支払われるそうですが、これを飲まず食わずでため込む研修生がいて困るそうである。3ヶ月くらいの長期になると、日に日に弱ってきて、栄養失調のようになるので困っているとのことでした。特に暑い国からきて、日本の寒い時期に研修があるとなお健康に問題があるとのことでした。食券をわたして強制的に食事をさせるなどの改善策を実行しているのだそうですが、しくみの抜本的な解決にはなっていないようでした。「所得格差が50倍もあると、ため込みたくなるのが人情じゃないでしょうか」という小生の意見に彼女も納得していました。例えると、1個、5千円の缶ジュースを飲む気持ちになれないのはあたりまえでしょう。そういえば、某県庁の仲良くしている職員の話を思い出しました。『今度のアフリカの研修生は、自分でめしを食べにいかないので弱ったよ。しょーがないから、いつも夕飯をおごってるよ。』ケニアのナイロビの郊外に日本円で60万円ほどで新築の2階建ての家をができる。日本での研修期間中にため込むことは可能である。長期の研修でため込んだ金で日本から中古車を入手して持ち帰ったり、帰国して職場をやめてしまったりする者もいるようである。所得格差が大きいと援助もなかなかむずかしい。


ケニアへの援助

ケニア共和国について
国  名    : ケニア共和国(Republic of Kenya)
独  立    : 1963年12月12日
位置・面積  :北緯4度〜南緯4度  東経34度〜42度
          58万 2,644平方キロメートル(日本の約1.5倍)
首  都    : ナイロビ(155万人)
人  口    : 2,870 万人 (1997年)

ケニアに対する開発援助委員会諸国のODA実績はつぎのようである。

主要な援助国 1994 1995 1996 1997(全体)
百万ドル % 百万ドル % 百万ドル % 百万ドル %
1日本 128.9 32.2 198.4 43.3 92.8 26.8 6,621 18.3
2米国 29 7.2 36.0 7.8 11.0 3.2 7,451 20.6
3フランス 16.1 4.0 n.a. - 17.0 4.9 4,776 13.2
4ドイツ 46.7 11.7 52.3 11.4 53.5 15.5 3,950 10.9
5オランダ 42 10.5 36.4 7.9 39.9 11.5 2,141 5.9
6イギリス 44.3 11.1 34.8 7.6 43.8 12.7 2,120 5.9
7カナダ 7.8 1.9 n.a. - 5.6 1.6 1,371 3.8
8スウェーデン 17.4 4.3 n.a. - 23.3 6.7 1,329 3.7
9デンマーク n.a. - n.a. - 20.0 5.8 1,135 3.1
10ノルウェイ 2.9 0.7 n.a. - 2.7 0.8 973 2.7
その他 65.5 16.4 100.8 22.0 36.2 10.5 4,279 11.8
総計 400.5 100.0 458.7 100.0 345.7 100.0 36,146 100.0

n.a.=not available
出典)1994年、1996年、1997年のデータは、それぞれ世界銀行発行の"World Development Indicators"の1997,1998,1999年版による。また、1995年データは、『開発途上国国別経済協力シリーズ1997』による。
また、1995年データは、『開発途上国国別経済協力シリーズ1997』による。

(ケニアにおける問題とは)
 開発途上国で問題となっていることは、高い人口増加率、医療の不備、教育の遅れ、社会基盤施設整備の不足、都市化の進行、雇用、食料不足、エネルギー資源の枯渇などである。ケニアの場合は、西側のアフリカにおけるショーウインドウとして、競って投資が進んだ良い時代があった。その結果、ナイロビは、高層ビルが並ぶ大都市となった。その後、世界情勢の変化(冷戦の終結)、経済の停滞(輸出産品の価格の低迷)などがあり、雇用環境の悪化、所得格差、社会不安、治安の悪化、経済の悪化の悪循環に陥った。食料は豊富、医療、教育はそこそこであるが、大問題の一つは人口の増大(援助しても効果が発揮できず、追いつかない!)である。
 
 途上国の人口増加率は、2−4%と高い。現在の日本の人口増加率は0.3%である。世界の平均は、1.5%程度である。ケニアでは、3-4%と高い。
3%とすると20年で1.8倍
4%とすると20年で2.2倍になる。
 20年で約2倍ということは、20歳以下の人口が半分ということになる。ケニアの地方の人口のデータを見ると、14歳以下の人口が40数%を占めているところがある。
 
 現在の日本の人口構成は、(1997年、全人口126,166千人)
14歳以下 15.3%
20歳以下 23.1%
65歳以上 15.7%

人口の比較

項目 ケニア 日本 世界
人口 (百万人) 31.8
(1996)
126.2
(1997)
5,768
(1996)
年平均増加率(%) 3〜4 0.3
(1990〜96)
1.5
(1990〜96)
年増加人口 約100万人 約30万人 約1億人

(1997年の日本の人口増)302千人=(出生児)1,209千人−(死亡者)921千人+(社会増)14千人


スワヒリについて
 ケニアの東海岸地域の文化の特性は、古くから、アラビア、インドとの交易圏であったため、イスラムの影響が強いことである。そして言語は、現地の言葉とイスラム圏のアラビア語が融合した「スワヒリ語」である。東アフリカ(タンザニア、ケニア、ウガンダ)の約4000万人がこの言葉を話すと言われる(ケニア人は、このスワヒリ語と部族語、英語の3つの言葉を話す。)。
 「スワヒリの語源」は、アラビア語の「海岸部」を意味するサヘールの複数形サワヒールを語源とするとのこと。また、14世紀のアラブの旅行家イブーン・バットゥータの著作に「スワヒリ」の名称が東アフリカ海岸を指すのに使われているという。「スワヒリ人」の特性は、アフリカ・アジアの混血 、スワヒリ文化の発展に寄与した海岸都市の社会上の特性 (都市的形態の町を形成、下水が必要!)、イスラムの価値観。

 この地域で勢力を張った国がオマーンである。オマーンはアラブ世界では、もっとも早く独立を遂げた国で、18世紀終わりまでに、オマーンはある種の帝国を作り上げた。オマーンはモンバサとザンジバルの両方を支配し、アフリカ沿岸にまで貿易を支配した。
 1507年、ポルトガルがオマーンを占領した。彼らは一世紀以上もオマーンを支配した。(ザビエル、種子島伝来1543)
 1650年、イマーム・スルタン・ブン・サイフがポルトガル軍を駆逐し、オマーン独立。

日本を含め、関連する年表はつぎのとおりである。

【15世紀
1492 コロンブス、アメリカ大陸発見。(スペインの援助)
1498 バスコダガマ(ポルトガルの探検家)、東アフリカ航路の開拓。マリンディで停泊。
【16世紀】
1507 ポルトガルがオマーンを占領。
1543 種子島に鉄砲伝来(ポルトガル人による)
1588 イギリスがスペインの無敵艦隊を破る。
【17世紀】
1632 「辰巳用水」の築造
1639 鎖国(オランダとは出島を通じて貿易。)
1648 オランダがスペインから独立。
【18世紀】
1780 ワットが蒸気機関を発明。イギリスの産業革命。
【19世紀末〜20世紀始め】 日本の産業革命。
【20世紀の終わり アジアで産業革命。
?? アフリカの産業革命。


ケニアでの逸話
(ナイロビの治安)
 民間のビルの建設が進むなど表面的には悪くないように見えるが、実際には景気が思わしくないので、雇用の機会も少なくなり、人々の収入も減少するなどのため、近年、ナイロビの治安がかなり悪化しているようである。ストリートチルドレンも多い。ナイロビ在住の家族が複数で住んでいる区画でも塀から押し入られそうになったという。警報と警備員が大騒ぎしてくれたので難を逃れたという。また、夜中に周辺で襲われる悲鳴が聞こえることもあり、以前には考えられなかったという。特に治安の良くないところでは、ホテルが閉鎖に追い込まれるなど、悪化に輪をかけているようである。
自動車強盗は昔から多かったが、最近は荒っぽくなって、危害を加えられた上に、強盗にあうようである。車は国際商品であり、どこでも価値は変わらない。300万円の車はケニアでも300万円の価値がある。所得格差が50-100倍あるので、1.5〜3億円の価値があるということになる。年中、つけ狙い、チャンスを見つけて、1台強盗すれば、一生の収入を稼ぐということになる。盗んだ車は、隣のタンザニアに逃げ込み、そこでバラバラに分解して、別の部品で組立なおして再びケニアに持ち帰るという。人気の車は、三菱のパジェロだという。盗むことも、分解組立する技術も一流の巨大なアンダーグランド産業が成り立っているようである。

(メイドさんがメイドを雇う話)
 ナイロビでは住み込みのメイドさんの報酬は月に3000-1000Kshs(ケニアンシリング)で日本円で6千円から2千円である。日本からの某専門家のメイドさんは3000Kshs、国家公務員の某夫妻のメイドさんは2000Kshsであった。面白いのは、日本からの某専門家のメイドさんは、1000Kshsでメイドを雇用しているということでした。

(マラリアのこと)
 エイズを除いて、ケニアでの主な5つの病気は、マラリア、急性呼吸器系感染症、皮膚病、下痢、寄生虫である。そのうちのマラリアは、全世界で、毎年3億人から5億人がマラリヤにかかっている。毎年約200万人の命を奪う。90%はアフリカであり、最も感染しやすいのは子供と妊婦である。ケニアではナイロビなどの標高の高いところは比較的少ないが、東海岸地域のデータでは毎年1回、全住民がかかっていることになる。種類がいろいろあり、薬もいろいろある。耐性菌が発生しているので薬が効かないこともある。最も有効な方法は、虫よけスプレー、蚊帳(モスキュートネット)、蚊取り線香である。ちなみに蚊取り線香は戦前、金鳥が日本脳炎を防ぐために開発したものである。世界的に普及している日本の世界三大発明!?!は、この蚊取り線香(モスキュートコイル)に加え、インスタントラーメン(日清食品の安藤安福さん)、カラオケである。

 

 

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