日誌が月遅れの月誌になってしまった。さぼっていたわけではない。
ダム建設室、辰巳ダム建設事務所および現場、県と市の情報公開窓口、金沢営林署を尋ねた他、県砂防課への問い合わせなど、5月は今までになく、忙しかったので日誌をとりまとめる間もないほどであった。筆の遅いのも原因であるが。一日、一日を確認するのも面倒なので、一ヶ月をまとめて下記に記述する。
平成14年6月1日記
県が主張するように、100年確率の頻度で、とてつもなく大きい洪水が発生する可能性があるならば、その痕跡あるいはその兆候がどこかに残っていてもよさそうなはずである。そのための、
(1)現地の聞き取りおよび大洪水の痕跡調査
石川県は、犀川ダム(昭和41年完成)以降、犀川の各所で流量測定をしているので、実際の洪水での出水量はどの程度であるのか知るための、
(2)犀川各地点の出水記録の調査
石川県が主張するような大洪水が発生すると、被害も膨大となろう。県は、その被害を3千億円とも4千億円とも、とてつもなく、大きく見積もっている。素人考えでも大きすぎるような気がするので、ここで正確に紹介するのもはばかられる。それでは、実際の過去の洪水による水害被害はいかほであるのであろうかを知るために、
(3)水害被害額の調査
を同時平行で調査、作業を進めた。
「現地の聞き取りと大洪水の痕跡調査」について
4月29日の聞き取り調査で得られた2つの手がかりについて調べた。一つは、相合谷橋の完成直前の流失、洪水時に起こる犀川上流での山崩れについてである。
「相合谷橋に関する文書(工事記録、図面)」を金沢市に行政情報公開請求した結果、橋梁台帳の写しが一枚だけ、手に入った。それ以外は何も無かった。台帳によると、完成は昭和48年である。46年から48年にかけての豪雨について調べた。金沢気象台の記録、北国新聞の記事を調べたが、大きな被害が発生したという記事はなかった。その中で見つけた、記事の一つはつぎのようなものである。
「県道倉谷土清水線の寺津−犀川ダム間約六キロをがけ崩れや道路崩壊の恐れがあるので通行止めにした。犀川警戒水位を越す、桜橋付近94a、市内で51戸が浸水。」(昭和46年7月26日、北国新聞夕刊)
このときの桜橋でのピーク流量は、158m3/sである。計画高水流量1230m3/sの13%にしかならないので、大した流量ではない。
30日に尋ねた、辰巳用水の水門番の辰島さんによると、はっきりはしないが仮橋が流されたのではないかと示唆された。これが本当ではないかな? いずれにしても、大洪水とはほどとおい。犀川ダム完成以後のことであるので、かなり少ない流量だったろう。相合谷橋の流失の件は、これで調査を止める。
5月30日の辰島さんへの聞き取り調査で、得られた手がかりは2つ。一つは、東岩の水門のハンドルを操作する足元の高さまで洪水が来たのではないかと推測される手掛かり(洪水後、行ってみると洗われたアシが残されていた。)、もう一つは、水淵橋地点の右岸、下流にあった小屋が流失したことである。いずれも昭和36年の第二室戸台風のときではないかとのことであった。
これについては、辰巳ダム事務所からレベルを借りて現場で簡単なレベル測量をした資料と事務所でもらった「ダムサイド平面図(千分の一)」、現地での観察から、概略断面図を作成し、おおよその水理計算から流量を求めることにした。
犀川上流での山崩れについては、金沢市消防本部、石川県砂防課、金沢営林署へ尋ねた。金沢市消防本部へは「犀川上辰巳町から上流区間で、山地崩壊等の大規模な土砂崩れ災害記録(過去、すべて)文書」を情報公開請求したが、「作成又は取得しておらず、保有していない。」との答えだけであった。人的被害あるいは人家や道路の損壊などが発生すれば、団員が本部へ報告するようであるが、被害が発生しない、山崩れなどは報告されないためと考えられた。
石川県砂防課に問い合わせたが、やはり、同じ様な答えで、参考にいただいた土砂崩れの一覧表も、市街地周辺で発生した小規模なものばかりであった。砂防課の話によると、犀川上流で大規模な砂防工事はしていないとのことであった。現地で観察できる範囲でも、集落周辺の谷川の砂防工事が行われているが、それ以外はほとんどなされていないようである。犀川上流の山地は、斜面が急であるため、そここで斜面の崩壊が発生した形跡がみられるが、住民への被害に関係がないので、災害とは言えず、災害記録として残らないのだろうと考えられる。
金沢営林署にも尋ねたが、わからないとの返事であった。そこで購入した「金沢営林署管内図(二十万分の一)」によると、犀川ダムの上流はすべて国有林である。管理について尋ねると、年に1回は境界杭の確認(のようなこと、しっかりは聞き漏らした。)のため、巡回しているとのことで、それ以外の定例の管理はしていないとのことであった。主として、白山麓の砂防工事が主な仕事らしい。
いずれにしても、豪雨で山崩れが起きることについては、どこもわからないということであった。
藩政期末の「犀川川筋図」(文久元年1861)によると、上流から、倉谷村の橋、二俣村の橋、見定橋、城力橋、青谷橋、水淵橋とあり、辰島さんの話によると、ケーブルでつった木製のつり橋があり、渡った記憶があるそうだ。基礎はコンクリートでできていたそうだ。これは今もそれぞれのところに残っているという。ケーブル製とすると、明治か大正に造りなおしたものだろうが、それ以降の洪水の痕跡があるかもしれない。
「犀川各地点の出水記録の調査」について
平成14年5月9日にダム建設室から情報提供という形で、「下菊橋測水所流量報告書」、「辰巳ダム地点の測水記録」、「浅野川放水路観測記録」を受領した。前に受け取った「犀川ダム管理年報」、「内川ダム管理年報」の記録から、犀川ダム、辰巳ダム、内川ダム、下菊橋(桜橋)、浅野川放水路の各地点の出水記録をまとめた。
「犀川各地点における過去の主な出水記録」、「犀川ダム地点における過去の主な出水記録」、「辰巳ダム計画地点における過去の主な出水記録」、「内川ダム地点における過去の主な出水記録」、「下菊橋測水所地点における過去の主な出水記録」、「浅野川田上地点における過去の主な出水記録」、「犀川水系の各地点の比流量」、「浅野川放水路分流量の実績」
まだ、未確認の箇所などがあり、歯抜けの部分があるが、利用は出来る。補足については、県の都合などもあって、完了は7月はじめになる予定である。
「水害被害額の調査」について
水害などの災害の被害記録は、県の消防防災課でまとめられている。市からの報告は、消防本部からあがるのではなく、各部局から縦割りで県へ報告され、県では、各部局から、まとめた数値だけ、消防防災課へ報告されている。大きな災害が予測され、災害対策本部が設置されるような場合は、すべての情報がそこへ集まるため、これが県の消防防災課へ報告されることになっているようである。市でもそのときは、市の総合防災対策室がすべてを把握できるようになっているようだ。水害被害の記録についてまとめた資料を探そうとした場合、結局のところ、各部局で一つ一つ調べないとはっきりしたことはわからないということになる。
ところが、水害被害については、国土交通省(旧建設省)の「水害統計」でかなり詳しい統計値があることわかった。大きな水害では、河川ごとに、一般資産等被害額、公共土木施設被害額、公益事業等被害額に分けて整理されていた。この「水害統計」をダム建設室から借りて、
「戦後の既往災害額(名目額)および治水事業費調書」、「石川県と全国の過去30年間の水害被害額(名目額および実質額)」、「石川県の過去30年間の水害被害額と災害被害総額(名目額)」、「犀川流域と石川県の過去30年間の水害被害額(名目額および実質額)」、「過去30年間の犀川水系水害被害額(名目)」、「最近の豪雨による水害被害」、「平成10年9月18-26日豪雨による水害被害の内訳」、「平成10年8月1-8日梅雨前線豪雨による新潟市水害被害の内訳」
を作成した。
また、県行政情報サービスセンター常備の石川県消防防災課作成「石川県消防防災年報」から、
「石川県の過去30年間災害被害状況」、「過去30年間の石川県災害被害額」
をまとめた。
さらに
「藩政時代からの主要な豪雨の整理」について
過去の洪水の歴史を整理するために、『石川の土木建築史』(石川県土木部)、『辰巳ダム計画書』(石川県)、『金沢市第二消防団史』(金沢市第二消防団)、『石川県災異誌』(石川県)、金沢気象台降雨データなどを参考に、
「過去の主な豪雨」(一部歯抜け)、「金沢の水害史」(作成途上)
を作成した。
関連して、
(辰巳用水0.7m3/sは余っているのではないか?)
杜撰な水利権行政のため、後発の水利用者が過大な負担を受けている、つまり、県民が損害を受けているのではないか? 慣行水利権/許可水利権に関して、寛さん(ナギの会)が、平成14年5月23日に県へ質問書を差し出したので、同行した。水利権そのものの関心よりも、水量についての関心、かんがい面積が減っているから、かんがい用水も余剰が出ているのではないか、これを他に必要な水利用者に転用して有効な活用をはかるべきではないか、いまだに辰巳ダムで維持用水を0.7m3/s開発しないといけないといっているが、かんがい用水の転用で十分にまかなえるのではないか、という問題意識からである。
辰巳用水のかんがい面積は、戦後の約85haから半減しているはずである。末村、涌波村はほとんど市街化している。かんがい面積が半減しているにもかかわらず、あいかわらず、水利権は0.7m3/sであり、兼六園の0.06-0.08m3/sの水量でさえ、かんがい期の余り水しか、もらえないことになっているとのことである。もともと、御用水として兼六園、金沢城に引くために、造られた物でありながらである。
寛さんの質問書に対して、県は聞き置くだけで何の返事もなかった。慣行的なかんがい用水の無駄遣いを容認しているようである。水利権を慣行から許可へ変えて、水の合理的な使用をはかるように、水理行政が転換したはずであるが、石川県では、ほとんど、かんがいサイドのいいなりで、適正な管理を放置してきたようだ。県からどのような回答がでてくるのだろうか。内容については、寛さんのホームページへ。
このかんがい用水の無駄を知らない内にささえているのが、
(かんがい用の犀川ダム?)
ではないか。かんがい用水は慣行的に使用しているもので、どんな使い方をしようと大きなお世話であると、かんがい使用者が主張しているように見える。かんがい使用者の言い分は、かんがい面積が小さくなっても多く流さないと水が行かないというものであるが、それほど根拠があるとは思えない。
犀川ダム築造前は度々、干害被害があったのではないだろうか。犀川ダムは、かんがい側が一銭の負担もせずに造った、「かんがい用ダム」の疑いをもっている。
金沢では、水需要の大きい7月に数十ミリしか降らないと渇水が起こる。最近の大きな渇水被害は、昭和48年の被害である。7月40.5mm、8月70.5mmしか降らなかった。上水用の犀川ダム建設後であったが、上水は大きな被害を受けた。かんがいも被害を受けたが、犀川ダムで大いに恩恵を受けた疑いがある。過去の渇水の歴史を比較検討する必要がある。
とりあえず、「石川県災異誌」と「石川県気象年報」金沢気象台から、
「金沢気象台の月降水量(116年間:1886-2001)」、「金沢市水道の渇水の歴史」
を作成した。