金沢洪水考えるNo.13           

昭和36年の第二室戸台風で犀川大橋地点の右岸が決壊した!

川の氾濫というと、テレビなどで見るように、濁流が民家と住民を襲うシーンを想像するが?
県は,このようなことが二度と起こらないようにと、犀川ダムを造り、河川改修を行い、さらに辰巳ダムが必要だと主張する!
(犀川本川堤防の決壊)
 42年前の9月16日、第二室戸台風の通過にともなう豪雨のため、犀川大橋の上流約100m付近の右岸(片町側)付近の堤防が決壊した。金沢市の中心に位置する片町、池田町一帯に浸水被害が発生した。市街地を貫流する犀川の氾濫は市民の生活を脅かす大事件であった。

(『石川県災異誌』では)
 『石川県災異誌』をひもといてみる。
「(9.16)暴風雨(第二室戸台風)、
(金沢)瞬間最大風速30.7m/s(北西、18時6分)、暴風雨の始め17時20分、暴風雨の終わり18時45分、総降水量73.6mm、
、、、17時15分頃から急に北西風が強くなり、17時20分からは10m/sを越し、17時45分に北西の17.3m/s(平均)18時06分に北西30.7m/s(瞬間)を観測した。台風は進行速度が本県通過ごろから加速され、佐渡島付近で副低気圧を作り勢力が分裂したため、割合早めに暴風雨がやんだ。死者8、傷者80、行方不明5、家全壊143、同流失8、床上浸水1,327、その他被害総額は77億円を上廻った。」
  注1)(金沢)の気象記録は金沢地方気象台で観測された。当時、金沢気象台は弥生一丁目にあった。犀川大橋から南へ約1km強のところに位置する。
  注2)石川県全体で発生した被害を表す。

 風は強かったが、金沢市内での雨は比較的、小さかった。16時から17時にかけて雨のピークがあり、時間30mmを超えた。

(犀川上流、倉谷観測所の雨量は)
 18時〜19時にかけて、70mmを超える記録的な豪雨が発生した。この雨が19〜20〜21時にかけて犀川大橋付近の大きな増水をもたらした。

(堤防決壊による浸水被害者の話による、氾濫の様子は、)
 「夕方、台風が去って風も弱くなり、雨もやんでいた。外がまだ、暗くなる少し前だった。停電になった。ろうそくの火を灯して、夕食の用意をしていたときだった。急に畳がフワーッと浮いた。静かにどんどん、水かさが増してきた。あわててテレビやステレオを二階にあげた。畳の上から90センチくらい、地面から1.5mくらいのところまで水位があがり、そこで(水の上昇が)落ち着いた。5分から10分くらいのことだった。
 犀川べりの伊藤病院からちょっと大橋よりの堤防道路が半分くらい削られた。そこから水が流れ込み、池田町三番丁、四番丁が水浸しになった。死者やけが人の話は聞いていないので多分、ゼロ?。」
この話から2点に注目したい。
一つは、川水が増水したといっても、堤防を越えて氾濫したのではなかったので、水の勢いで堤防に沿って造られていた護岸と道路が崩壊し、そこから川水が流れ込んだものであった。氾濫の原因は弱体な護岸にあった。
もう一つは、比較的、静かな川水の浸入であったことである。川の氾濫というと、テレビなどで見るように、濁流が民家と住民を襲うシーンを想像する。そして、多くの住民の生命と財産がが脅かされる「大きな災害」を思い浮かべる。県の治水担当者もことあるごとに川水(外水)氾濫の恐ろしさを強調してきた。その根拠の一つが、この第二室戸台風の災害である。ところが、事実は県の説明とかなり違うようである。

(県は、このようなことが二度と起こらないようにするためにと、)
 昭和36年以降、犀川の治水事業が急速に進めた。
 昭和40年に犀川ダムが完成した。昭和36年の洪水では、ピーク流量が700±50m3/sと推定されている(「犀川中小河川改修事業全体計画書(昭和47年度)」の添付文書「犀川河川改修計画報告書(計画高水流量編)」p.22)。犀川の治水安全度を高めるために、犀川大橋地点で基本高水流量930m3/sとした(犀川ダムの洪水調節で615m3/sまで削減する)。堤防の強化に加えて、治水安全度を高めたのは理解できる。
さらに、昭和47年からは犀川大橋前後の改修事業で川断面を拡大した。犀川大橋地点で基本高水流量1600m3/s(犀川ダムの洪水調節で1230m3/sまで削減する)とした。犀川大橋地点の河床(昭和36年当時)から、幅約40m、深さ約4mの大きさで切り下げられた。高い段のところが当時の川底で、低くなっているところが切り下げられた川底である。川の断面は約2倍に拡大している。かなり、思い切った治水安全度の増強である。
ところが、驚くべきことに、またまた治水安全度をあげて、犀川大橋地点で基本高水流量1930m3/s(犀川ダム/辰巳ダムの洪水調節で1230m3/sまで削減する)とした。いまだにこのようなことが二度と起こらないようにするために、「辰巳ダム」が必要であると県は主張しているのである。

(治水対策の混迷)
 追われる理由がないにもかかわらず、追われるように、つぎつぎと対策をたてている。原因を正確に認識していない、そのため、治水対策の根拠が薄弱である、「県民の生命と財産を守るため」という大義名分だけで事業を進めているから、どこまで安全度をあげていいのかわからなくなっているのではないか?もともと、堤防の強化だけでよかったのである。犀川の治水安全度をあげるにしてもどの程度あげるかについて、県民の議論を吸い上げて適当な着地点を設定すれば良かったのである。ボタンの掛け違いでとんでもないアドバルーンをあげてしまったものだから、引くに引けなくなったのである。理由を後付けするから、犀川水系河川整備検討委員会での議論も矛盾だらけとなり、正確な説明もできなくなるのである。
昭和36年の洪水の様子.、
下流の右岸から犀川大橋を望む
昭和36年の洪水で桜橋が
流失した.
水が引いた後で民家の掃除を
する様子.
犀川大橋上流約100m地点の
右岸が決壊した
現在の犀川大橋から
昭和36年に決壊した付近を望む.
昭和47年からの改修工事で約4m、
川底が切り下げられた
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