転換期の私的・土木技術論考

−辰巳用水と辰巳ダムから明日の土木を考える−


目次
はじめに …………………………………………………………… 1
1章 辰巳用水と辰巳ダムという土木構造物 …………………… 4
1.土木とは …………………………………………………… 4
2.17世紀の辰巳用水 ………………………………………… 8
3.20世紀の辰巳ダム ………………………………………… 10
2章 17世紀と20世紀は土木の時代 …………………………… 14
1.外国から導入した技術革新 ……………………………… 14
2.17世紀の土木 ……………………………………………… 18
3.20世紀の土木 ……………………………………………… 20
3章 辰巳用水という土木事業 ………………………………… 22
1.ミリタリエンジニアリングである辰巳用水 …………… 22
2.辰巳用水の土木技術 ……………………………………… 28
3.歴史的土木文化遺産としての辰巳用水 ………………… 34
4章 辰巳ダムという土木事業 ………………………………… 38
1.辰巳ダムという多目的ダム ……………………………… 40
2.「地域活性化の起爆剤」という辰巳ダム ……………… 64
3.辰巳ダム建設によって発生する問題点 ………………… 66
5章 21世紀の土木事業はどう考えるか ……………………… 73
1.建設時代から維持管理時代へ …………………………… 74
2.ハード対策からソフト対策へ …………………………… 75
3.官から民へ ………………………………………………… 78
4.自然環境との調和 ………………………………………… 79
5.文化遺産との共存 ………………………………………… 80
6.住民への情報公開 ………………………………………… 82
おわりに ………………………………………………………… 87

はじめに

はじめに《辰巳用水》と《辰巳ダム》について述べるための背景となる犀川、金沢について、若干の予備知識としての地理、気候、歴史についてふれる。取り上げる二つの土木構造物は、加賀百万石城下町金沢を流れる犀川の水開発に由来する。犀川は金沢の南東に位置する奈良岳(標高1644m)に源を発し、南東から北西に向けて流れ日本海に達する。流路延長40km弱、流域面積256km2をもつ、県管理の二級河川である。流路の中間(河口から約20km上流)地点に辰巳用水の東岩取水口があり、辰巳ダムの計画立地点ともなっている。その集水域はほとんどが山林であり、金沢の水源涵養林として保全されている。
 金沢は裏日本特有の気候を有し、降水量は多く、年間の降水量は東京の2倍程度に達する。 1mm以上の降雨日が180日と年間の半分を占める。11月から2月にかけての降雪、6月から7月にかけての梅雨による降雨が多い。台風は、南西の方向から陸地を横断して襲来するが、頻度は小さく、降雨量も比較的少ない。
 歴史的に金沢というまちが発展するのは、前田利家の支配下になった16世紀末からである。すでに一向宗の拠点である尾山御坊(あるいは尾山城)があったが、利家は本格的な改築を行ない金沢城を造る。この金沢城を核として、周囲に武家屋敷と武士の生活を支える職人、商人などの町人のまちを配置した。城下町の北と南に位置する浅野川、犀川は天然の防御壁の役割をになわせた。防火用水を名分にした"辰巳用水"が築造された寛永9年(1932)ころには、ほぼ城下町造りが完了した。
 17世紀当初、当時の全国の総石高を1,500万石とすると、加賀藩の120万石は8%に相当した。元禄年間(1688−1703)の記録によると、金沢は12万人の人口を擁し、三都につぐ規模を誇った。現在の石川県が、人口(118万人)、面積(4,185km2)、県歳出額などが全国の1%程度に相当することから1パーセント県と呼ばれることと比較すると隔世の感がある。
 近代の経済発展のペースに乗り遅れた感も否めないが、全国各地に画一的な近代都市ばかりが誕生して地方文化が醸成された、特徴ある都市が数少なくなってみると、地方独自の文化資産が豊富に残る古い伝統ある町、《金沢》の希少価値が評価されるようになってきた。1周遅れのトップランナーといったところであろうか。
 まち全体のつくりも数百年の歴史をとどめ、藩政時代の地図を容易に載せることができる。まちを縦横に走る用水をたどるとたちまちに江戸時代の初期まで溯ることができる。その中の一つ、御城(金沢城)から見て辰巳(たつみ)の方向(南東)にある《辰巳用水》は、御殿さまの命令で造られた軍事目的の《殿様用水》である。藩政時代が終わると同時に軍事目的がなくなり辰巳用水は廃止されたという憂き目にあったとしてもおかしくはなかった。目的の消滅とともにその土木構造物が放棄されたり、再構築というケースも多い。西欧からの新しい技術が導入され、都市用水の開発のために、新たな水路が築造されたという想像も荒唐無稽ではない。さまざまな想像を超えて、辰巳用水は366年間も築造当時の姿を残しつつ、いまだ、十分すぎるほどの機能を果たしている。内村鑑三は「土木事業は永遠の富を後世に残すこと」といったが、富を贈り続ける辰巳用水は土木構造物の鑑のような存在である。
 この辰巳用水の東岩取水口地点でダム建設が行われようとしている。金沢を100年に1回の洪水から守るために洪水調節用のダムを建設するという計画である。事業主体の石川県は、文化遺産も大事であるが、市民生活を災害から守るためにやむ得ないと主張する。
 計画当初から、地元の学者や文化人の間から、文化遺産としての辰巳用水への影響や辰巳の自然への影響への懸念をする声が多くあった。ダム計画そのものに対してもいくつかの疑問を呈する主張もあった。筆者もいくつかの疑問に対して土木技術者の観点から調べてみたところ、専門家から見るとあまりにもずさんな計画であることがわかった。《辰巳用水》が良い土木事業の典型例とすると、《辰巳ダム》は悪い土木事業の典型例である。
 どうしてこのような計画が作られたのであろうか。辰巳用水、辰巳ダムはともに同じ土木事業でありながら、土木構造物の有用性は対極にある。担当した技術者たちは、地域の発展のため、豊かになるため考えてやったことに違いないのであるが、どうしてこのような結果になったのか考えて見ようと思う。
 単に行政を批判していても始まらない。これらを反省材料としながら、今後の公共事業はどう考えるべきか、17世紀に築造された辰巳用水の意義を分析し、20世紀に計画された辰巳ダムの問題点を明らかにしながら対比することで、21世紀の土木事業のあり方に関する手がかりが得られないだろうかと考えている。
 もとより、この冊子は客観的データのみに基づいた学術書ではなく、手元に集めた資料を頼りに土木技術者としての筆者の意見を述べたものである。簡明な言葉づかいや注釈を加えたつもりであるが、専門知識がない方には読みづらい個所が多いかもしれない。また、根拠があいまいであったり、言葉たらずであったりするかもしれないし、誤解があるかもしれない。今後の建設的な議論のたたき台になればと考えている。
 ただ、石川県河川開発課は当方の意見を含めた県民の疑問に対して、県民にわかりやすいように説明するべきである。石川県が平成7年2月に公表した『犀川水系辰巳ダム治水計画説明書』(以下、『計画説明書』と呼ぶ)で見られるように、不足データを補うためとはいえ、他の地点のデータを流用するというズサンな方法ではなく、既存のデータ並びに必要なデータはあらためて収集して説明の根拠を明確にするべきである。既存の犀川・内川ダムの洪水調節機能についても、懸案の犀川大橋地点の洪水抑制にどれだけ役に立っているのか、実際のデータで説明するべきである。

                                                                                                 平成10年3月31日
                                                                                                      中 登史紀
1章 辰巳用水と辰巳ダムという土木構造物

1.土木(どぼく)とは
土木構造物とは

現在ではあまり印象のよくない、土木構造物の《土木》という言葉はどういう意味だろうか。周知のように、水路やダム、道や橋を造ることであるが、どうして《土木》というようになったのだろうか。
 今でも時折、道路工事を道普請(みちぶしん)というが、江戸時代は土木工事を普請(ふしん)といった。普請という言葉は、もともと仏教用語で寺を造営すること、転じて、道や橋を造ることなどの意味になった。ちなみに、建築工事は作事(さくじ)である。
 明治期に西洋文明の輸入と同時に多くの日本語が生まれたが、Civil Engineeringを土木あるいは土木工学と翻訳した。古代中国の世界史観である陰陽五行説(万物は陰と陽、木火土金水(もっかどごんすい)の要素でなりたっている)にもとづいており、《土》は最も中心的で重要な要素であり、《木》はものごとの始まりをあらわす要素であるという。大地をあらわす《土》を基本として、その上に《木》などの材料を用いて人々が生活する基盤をつくるということから、土木という言葉が作られた。また、「築土構木(ちくどこうぼく、土を築き、木を構える)」という言葉もあった。大地を削り均して道を造り、木材を組み立てて橋を造ることが土木事業である。
 英辞典をひも解くと、道路、鉄道、橋、トンネル、ダムなどの公共施設を計画し、建設と維持管理の監理する人が土木工学者(civil engineer)であり、土木工学者によって造られたものが土木構造物(public works)とある。ちなみに、文明はcivilizationである。

土木は社会の基盤を造る
public worksは公共施設とも訳すように土木構造物の大半が公共施設である。例えば、都市を形成するためには道路が不可欠であり、農地をつくるためには用水路が必要となる。都市や農地などの開発プランに基づいて道路や用水路などの土木構造物がつくられる。時代の変遷とともにこれらの都市、農地が、時代のシステムにあわなくなると、再び、開発プランが再作成されるという循環が繰り返される。

(スタート)開発プラン                 ←
      ↓
土木構造物                       ↑
      ↓
(エンド)良好な都市・農地               ↑
システムが時代にあわなくなると再び(スタート)へ戻る

    社会が発展するに伴い多くなった社会の基盤を造る土木構造物を分類すると、
           生産基盤施設(農業生産用地、工業用地、商業用地)
           交通基盤施設(道路、鉄道、空港、港湾)
           社会生活基盤施設(上下水道、廃棄物処分場、電力施設、通信施設)
であり、豊かな社会を下支えするのが土木である。

土木はシビルエンジニアリングである
日本語の"土木"に、軍事、民生の区別はないが、英語のCivil Engineeringを直訳すると、民生工学あるいは市民工学ということになり、軍事工学(Military Engineering)に対する概念である。明治維新は西欧列強による外圧下で下級武士たちが主となり新しい国家を構築したもので、市民という意識がほとんどなく、明治の翻訳者は、民生と軍事と対比させて考える必要性を感じなかったのだろう。民生であれ軍事であれ、道や橋などの構造物自体は同じ物である。即物的に土木という概念を取り入れた。
 軍事行動を起して大規模に戦闘要員を移動させるためには道路や橋を築造する技術が不可欠である。土木はMilitary Engineeringとして発展した一面があり、本質的に軍事と土木は類似の行動でもある。大量の要員と資材を活用して効率的に素早く実行する必要がある。まず、情報を集めてプランを練る。資金を確保し、要員と物量を用意する。これを効率的に機能させるために組織をつくり、これを適切にコントロールしながら、目的を達成するわけである。支配者、権力者が支配地を治めるため、軍事行動をするために、土木は必要不可欠なものであり、軍事行動の一部であり、文字どおり、Military Engineering であった。今日でも強大な軍は強大な土木技術者集団を持っており、世界最大の土木技術者集団は米国陸軍工兵隊(U.S.Army Corps of Engineers)である。
 西洋でも日本でも社会が安定する17世紀ころ、軍事から民生に転用され、civil engineeringとなった。日本では、江戸幕府が開かれ(1603)、大阪夏の陣(1615)が終わるころになると、幕府は諸藩が必要以上の戦力を持つことを抑制し始める。特に、荷駄者(輜重兵)や黒鍬者(工兵)などは藩を越えて軍事行動を起こすため必要であるが、藩内だけの治安のためにはこれらの要員の必要はない。これらの要員は、武士身分ではなく、民間人つまり町人として、運送業者や土木技術者になった。土木技術者は民間の土木事業、特に用水の開削と田圃の開発などに従事する。

土木は大規模な国土の改変を伴う
土木は国土を改変して豊かで住みやすい生活環境をつくることである。これが成功すると、長期間にわたり役に立ち、多くの人々がその恩恵によくする。成功がつぎの土木につながり、次第に大規模化する。大規模な土木工事は、国土の形態を著しく変化させ、これに伴って大きな環境変化をもたらす。大きな利益をもたらすが、大きなマイナスをもたらす場合もある。昔から、大規模な土木工事は行われてきたが、今日の問題点の一つは、われわれが著しく発達した技術を獲得し、大規模な土木工事を行うことのできる機械力を手にしたので、短期間に大規模な改変が可能になってきたことである。短期間の大規模な改変によってどのような環境変化をもたらすか、予測できないことが多い。大規模な改変が急速に起こっているので、その結果が取り返しのつかないことになりかねない。
 「強大な軍事力を持つと、軍事力を行使したくなる」ように、「大規模に開発できる土木技術を持つと、土木技術を行使したくなる」。マーフィーの法則(Murphy's Law)の中につぎのような警句がある。「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える」(注)
 軍事力をシビリアンコントロールのもとにおく必要があるように、土木技術者は自らを国民の監視のもとにおかないといけない。これも土木技術者が住民に対して土木をわかりやすく説明しなければならないことの理由の一つである。

(注)マーフィーの法則(Murphy's Law)
   バルックの考察(Baruch's Obserbation)
   ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える(If all you have a hammer, everything looks like a nail.)


2.17世紀の辰巳用水
辰巳用水は、犀川の水を御城から約10km上流の雉の取水口から小立野台地へ導いて年間を通じて水利用するものである。藩主利常の指示のもとで江戸初期(17世紀初期、366年まえ)に築造された。辰巳用水は地元の人々は殿様用水といったように、当初、かんがいのためにつくられたものではなく、城下町の防火用水、堀への供給水、侍の生活用水などのために利用された。藩政時代途中から、かんがい用水としても一部、利用されたが、本格的にかんがい用水として利用されることになるのは藩政時代が終わってからである。

辰巳用水の主たる特徴は、
1)民間人が監督したミリタリエンジニアリングであること
2)当時の最新の技術を取り入れた土木構造物であること
3)用水・兼六園・御城が三位一体となった歴史的文化遺産であること
である。

1)民間人が監督したミリタリエンジニアリングであること
藩主利常は、算用場奉行稲葉左近に対して用水を建設するようにが命じた。
目的は、高台の小立野台地へ犀川の上流から水を引き、御堀の用水、防火用水、武士の生活用水などを確保すること
条件は、緊急を要するので、1年で造ること
 事業総括責任者(プロジェクトマネージャー)である稲葉左近は、この土木事業を行うために、町人格の土木技術者板屋兵四郎を総監督として起用した。板屋兵四郎は、まず、測量によって取水地点、用水ルートを調べ、具体的な用水路計画をたてた。つぎに、この計画にもとづき、人(必要な動員数の計算)、モノ(必要な資材の量および調達方法)、カネ(事業費の積算)、執行体制の検討などをおこなった。そして、高台の小立野へ用水を導くために、短期間に大量の要員と資材を活用して迅速に施工するための施工計画をたて、用水建設を行った。

2)当時の最新の技術を取り入れた土木構造物であること
辰巳用水の築造にあたり、当時の最新の技術が取り入れられている。特徴的な技術としてあげられるのは、緩勾配の用水路技術(測量技術)、水トンネルの技術、木樋(もくひ)の技術である(伏越(ふせこし)の理で金沢城内へ水を揚げた)。加賀藩のビッグプロジェクトとして全国的に注目をあびたことだろう。

3)用水・兼六園・御城が三位一体となった歴史的文化遺産であること
板屋兵四郎によって雉の取水口から兼六園までの約10kmの用水路の開削が行われた(1632)後、2年後には城内の二の丸御殿まで木樋(伏越の理による)で引水している。約200年後に築造された東岩取水口(1855)から安定的に取水できると同時に兼六園の曲水も整備されている。現在の兼六園の姿になったのはこの時である。兼六園、金沢城は辰巳用水を介して一体のものとなっている。

3.20世紀の辰巳ダム
開発され尽くした犀川で新たに水を開発しようとすると、ダムを造って冬の水を夏まで貯めておくしかない。大正期以降、増加した金沢市民の水道水を確保するため、犀川で貯水量1千万トンクラスの2つのダムが築造された。犀川ダムと内川ダムである。両ダムで開発された上水量は20.5万トン/日になり、現在の人口43万人の水道をほぼ賄えるものである(手取川ダムからの受水予定量19.5万トン/日を含め、40万トン/日の上水量が確保されている)。
 犀川ダムは、洪水調節、かんがい、発電、上・工水道の供給を目的とした多目的ダムとして、昭和41年に完成した。犀川大橋から約20kmの上流に位置している。集水面積56km2、総貯水量1,430万トン(有効1,195万トン)である。上水13.5万トン/日、工業用水3万トン/日の計画であったが、現在は上水道10.5万トン/日に変更されている。上水は寺津用水を通じて末浄水場へ導かれる。発電は、最大16,200kw、常時2,700kwである。ダム地点で洪水量を470m3/sec→95 m3/secまで抑え、犀川大橋地点では930 m3/sec→615 m3/secまで低下させる。
 内川ダムは、浅野川の洪水調節、水道用水の確保を目的に、犀川の支流、内川に建設され、昭和49年(1974年)に完成した。集水面積は35km2、総貯水量950万m3(有効760万m3)である。浅野川の上流には、洪水調節用のダムの適当な立地点がなかったため、浅野川の洪水を浅野川導水路を通じて犀川に導き、増加分に相当する負担を削減するためにダムを造ったものである。浅野川導水路で犀川に250 m3/secの水を落とすことによって天神橋地点で710 m3/sec→460 m3/secに減少させる。犀川では、内川ダム地点で440 m3/sec→130 m3/secに低下させ、犀川大橋地点で1600 m3/sec→1230 m3/secとする。上水開発量は、10万トン/日である。上水は犀川浄水場へ導かれる。
 犀川の3番目の多目的ダム、辰巳ダムは洪水調節を主目的として26年前、昭和47年12月27日づけで建設大臣の工事認可を得たものである。石川県が管理している二級河川犀川の上辰巳地点(河口から20km地点)に設置される。辰巳ダム地点で800 m3/sec→470 m3/secに抑え、既存のダムの洪水調節機能とあわせて犀川大橋地点で1920 m3/sec→1230 m3/secに低下させるものである。この計画に伴い、犀川ダム950 m3/sec→480 m3/sec、内川ダム710 m3/sec→170 m3/secと洪水調節量が変更された。辰巳ダムは、特に前述の2つのダムと相違して、治水が主目的である。

3つのダムの主要諸元は下表にしめすとおりである。
犀川水系の主なダムの比較

名称 犀川ダム 内川ダム 辰巳ダム
完成時期 昭和41年 昭和49年 未定(本体未着工)
目的 上水等の用水開発発電
洪水調節
930→615
上水開発
洪水調節
1600→1230
河川維持用水開発発電
洪水調節
1920→1230
規模 有効貯水量
1,195万トン
有効貯水量
760万トン
有効貯水量
800万トン
経過年数 32年 24年
位置 犀川大橋から約20km上流 犀川大橋から約12km上流 犀川大橋から約10km上流

 辰巳用水の東岩取水口がある辰巳ダム計画立地点は、水の流れが90度に屈曲し、両岸が迫る狭窄部となっており、ダムを造るために格好の地形となっている。必要な用地の95%が買収されたり、周辺の道路や橋などの環境整備が進んでいるが、まだダム本体の着工は行われていない。先日の新聞報道によると、辰巳ダム事業の事業予算が前年度の4億円に対して、平成10年度は1.4億円と約1/3に減額になり、工事費はほとんどゼロとなった(その後の補正で2千万円追加されたとのことであるが)。公共事業の見直しを受けて、辰巳ダムは優先度の低いダムと評価されたのか?

辰巳ダムの主たる特徴は
1)多目的ダムであるということ
2)地域活性化の起爆剤となるダムであると主張されていること
3)建設によって一部の文化遺産を破壊するダムであることである。

1)多目的ダムであるということ
多目的ダムとして3つの目的が掲げられている。まず、治水目的であるが、その洪水量がかなり大きいのでその算出根拠が技術的に適切かどうか疑問があることがこのダム計画の問題点としてある。この計画した洪水量が大きすぎるということになれば、ダムによる治水は不要となる。また、河川の正常な流れを維持する用水の開発を目的の一つにあげているが、その水量の根拠の説明を県はしていない。犀川の大きさに比較して著しく小さい水量であり、それが供給されたとしてその効果が不明である。河川の正常な流れを維持できないわずかの水量をダムで開発する必要はないのではないか。あっても無くてもよいものなら無くてもよいのである。必要であるなら、どれだけ必要であり、そのためにはどうしなければならないのかとの考えが、最初にあるべきではないのか。さらに、ダムの目的に発電をあげているが、夏期のダム地点ではほとんど水が流れない。このような場合、発電するためにダムに貯水容量を確保するが、辰巳ダムの発電貯水容量はゼロである(ちなみに上流の犀川ダムは発電のためのダム貯水容量を確保している)。夏期に発電できないということである。このダムの目的のすべてに疑問符がつく、多目的ダムである。

2)地域活性化の起爆剤となるダムであると主張されていること
常識的には、ダムが築造される地域にとって単なる迷惑施設であると考えられるが、常識に反して地元では、地域活性化の切り札とされることが多い。この辰巳ダムでも、地元選出の故市議会議員は「地域活性化の起爆剤である」と主張していた。

3)建設によって一部の文化遺産を破壊するダムであること
一般的にダムの立地が山奥であることが多いことなどの理由で、文化遺産への影響についてあまり問題になることはないが、辰巳ダムの場合、辰巳用水の東岩取水口という歴史的土木文化遺産に重大な影響がある。そして、約2kmにわたって湛水することになり、市街地に隣接した貴重な渓谷美が損なわれるので自然環境に対する影響の大きい。


2章 17世紀と20世紀は土木の時代

1.外国から導入した技術革新

戦国時代、国内で大規模な戦闘が頻発したということは、余剰の人、モノ、カネが溢れていたに違いない。これらの余剰がなければ続かない。外国からの流入が一部の貴重品であったことを考えると、これらの余剰が国内で生み出されたわけである。
 戦さをする余剰の人々が発生するためには、余剰の食料、当時の主食である米の生産が著しく増加した背景があるに違いない。このためには多くの田と水を引くための用水路が築造されたであろう。比較的、容易に開発できるところはそれまでに開発されていたであろうから、新たに開発が進んだということは、かんがい技術の進歩があったのであろう。
 また、戦さをするためには、大量の武器弾薬などが必要となる。そのためには、鉄、銅、鉛などの金属が大量に必要となる。新たに鉱山を開いて鉱物を採掘するために鉱工業の技術や武器を製造する技術の進歩があったであろう。
 さらに、戦さを継続するためには、軍資金がいる。カネは都市活動に付随するものである。カネが豊富であるためには都市が発達することが前提となり、活発な商業活動が行われているということである。取り引きされる商品が増加するためには、大量の物産を生産する技術の進歩があったであろう。
 これらの様々な技術はいつ、どこから来たのであろうか。国内で突然、技術革新が一気に起きるとは考えにくい。足利幕府は、1401年に明との貿易を再開しているが、人やモノの交流と同時に技術が流入したのだろう。さらに、ポルトガル人が種子島に来て鉄砲を伝え(1543)、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来た(1549)。西欧の技術がどっと流入したことは想像にかたくない。15世紀に《明》から技術導入されて16世紀が発展し、16世紀に西欧から技術導入されたので17世紀の技術革新があったと推理する。17世紀の初めには世界有数の経済大国になっていたという(当時、日本は世界有数の金銀の産出国であり、銀は世界の1/3を算出していた)。
 技術革新によって人、モノやカネが増大したわけであるが、人口を例にとって考えてみよう。歴史を振り返ってみると、人口は徐々に増えているわけではなく停滞と急激な増大を繰り返している。人口が一気に倍増した時代はつぎのとおりである。

8世紀
   奈良時代(710〜)の後期 400万人 → 平安時代(794〜)の初期 800万人
16世紀
   応任の乱のころ(1467〜77) 800万人 → 関ヶ原の戦い(1600)1,600万人
17世紀
   関ヶ原の戦い(1600)1,600万人 → 元禄のころ(1688〜1703)3,100万人
20世紀
   明治(1868〜1911)初期 3,500万人 → 終戦(1945)7,200万人
   終戦(1945)7,200万人 → 現在(1998)12,500万人である。
参考)人口統計年鑑によると、明治5年(1872)で3,480万人、昭和20年(1945)で7,210万人、現在(1997)、12,500万人である。

これに対応するように外国との交流がある。
7世紀
   遣随使(600〜614)遣唐使(630〜894)などによる技術の導入
15世紀
   日明貿易(1401〜1547)による技術の導入
16世紀
   ポルトガルなどの西欧からの技術の導入(種子島伝来,1543)
19世紀
   英国、仏国、独国などの西欧からの技術の導入(明治維新後,1868〜)
20世紀
   主として米国からの技術の導入(終戦,1945〜)

つまり、
   技術導入 技術革新による発展(人口増)
   7世紀 → 8世紀
   15世紀 → 16世紀
   16世紀 → 17世紀
   19世紀 → 20世紀前半
   20世紀 → 20世紀後半
の関係があることが分かる。人口の推移と技術導入の関係を図6 に示す。

 8世紀・16世紀の成長は、中国からの技術導入、17世紀・20世紀の成長は、西欧からの技術導入によって技術革新が起こり、発展したことを裏付けていると考えてよい。その結果、急激に国内で人口増加が起こる。
外国からの技術導入による技術革新→食料生産量の増加→人口増
である。

現在でも、人口は米の生産量にほぼ比例してが決まる !?
 国内で米作を始めていらい、国内の消費をすべて国内でまかなっており、また、一人あたりの米の消費量は貧富の差や時代の差にあまり関係なく決まるので、人口はこの米の生産量にほぼ比例して人口が決まる。現在では、食料を大量に輸入し、食糧自給率が低下しているので、当然、この法則が当てはまらないと考えるかもしれないが、簡単な計算でこの法則が生きていることを説明できる。現在、減反政策のため約1/3の田圃を休耕あるいは転作しているが、現在の田278万ha(注)を減反せずに生産すると、単位収量600kg/haとして全体で1,670万トンになる。江戸時代は1人1石(150kg)の玄米を食べてほとんどの栄養をとっていた(現在では日本人が食べる米は年間1人当たり平均約70kgと減少している)。全体の1,670万トン/年を150kg/人・年で除すると、11,100万人となり、現在人口12,500万人の90%に相当する。畑、牧草地等が234万haあり、一部は田を目的に造られたが田が過剰のため畑としているところもある(河北潟の干拓地1400haは田として開発されたが減反政策のため畑、牧草地に転用されている)ので実際には、現在人口をまかなうだけの生産ができると考えてよい。換言すると、江戸時代の食生活にもどせば、すべての日本人の食料を国内で賄うことができる。「人口は米の生産量にほぼ比例して決まる」という法則がいまだに当てはまっているといえないことはない。
 (注)日本の農用地面積(1993年)は、地理統計要覧1997版によると、田と畑を合わせた耕地が512万ha、田が278万haとなっている。

2.17世紀の土木
 辰巳用水が築造された17世紀の前半は、辰巳用水の築造の目的からもわかるようにミリタリエンジニアリング的性格が強い。江戸では、1603年に幕府が開かれてから、町づくりが進められるが、同様の性格のものである。この時期に天下普請ともいわれた「日比谷入江の埋立て」が行われ大名屋敷が造成された。
 豊臣が滅び、平和な安定した時代になった1930年ころになると、幕府は各藩が必要以上の軍備を備えることを抑制した。黒鍬者(工兵、つまり土木技術者)は土木事業にたずさわる民間人となる。17世紀の中盤から後半になると、これらの人々によって、多くのかんがい用水路、圃場が開発された。
 金沢では、大野庄用水が、利家が入城する前後の天正年間(1573-1591)に造られている(犀川大橋の直下の右岸側に元の取り入れ口があった)。鞍月用水は元和年間(1615-1623)ころ、辰巳用水は寛永9年(1632)に築造された。このころまでの用水は軍事目的の意味も大きかったが、17世紀後半になると、犀川左岸の泉用水、長坂用水、浅野川右岸の小橋用水などのかんがい用水が整備されていく。現在、犀川には10ヶ所の用水路があるが、この時期に開発されたものである。
 17世紀は土木建設の時代であり、全国的に国づくり、まちづくりが行われた。その特徴は、山、川、土地(田)が有機的関連をもって開発され、このときに日本国土利用の骨格ができたことである。新たな技術革新により開発が進み、米の生産が倍増し、比例してこの100年間で人口が3100万人に倍増した。
当時の米の単位面積当たりの収量は、1反(10a)で1〜2石(150〜300kg)程度、加賀で1.5石、能登で1石だったらしい。仮に1反(10a)当り1石とし、1人当たりの米消費量を年間1石とすると、1反(10a)で1人養え、1町歩(1ha)で10人養える。となると、戦国時代の人口1,500万人を養うためには150万町歩(150万ha)、人口が倍増して3,100万人になると約300万町歩(約300万ha)となる。現在の圃場面積は、278万ha(278万町歩)であるので、江戸の初期に現在の田の大半が開発された(注)ということになる。
 (注)「加賀辰巳用水」p.219によると、「近世初頭の全国総石高1,800万石が元禄年間2,578万石へと急増している。」とある。2,578万石÷10石/1町歩(1ha)=258万 町歩(258万ha)となるので、前記の概略の推測を裏付ける。
 この時代に、ほとんど開発され尽くされた結果、江戸時代は3千万人強で頭打ちとなった。当時の稲作技術では、日本の国土で養える人口がこのくらいであるということである。現在の単位収量は、その当時の約4倍の 1haあたり6トン(1反当り10俵、600kg)である。圃場面積が同じであるので、約4倍の人間を養うことができる理屈である。3,100万人を4倍すると12,400万人となり、現在の人口12,500万人とほぼ同じである。

3.20世紀の土木
 江戸期の土木事業は、山という緑のダムで水源を養い、自然の川と人工の用水路の組み合わせで、水をコントロールするしくみをつくり、田という農業耕作地を開発し、これを有機的に結合させた。山、川、田(土地)という3点セットの原形が江戸期に造られた。
 17世紀が土木建設の時代であったと同様に、20世紀も土木建設の時代である。20世紀は、第2次産業(製造業)、第3次産業(商業)の発展に必要な用地、住宅地の開発が行われたことが特徴である。都市の発達に応じて、都市の人口を養うために上水や住宅用地を開発し、産業を振興して雇用を増大するため工業用水や工業用地の開発を行った。圃場は、短期間、冠水してもよいが、都市的用途に使う土地は、冠水させることができない。そのため、河川の治水も高い堤防を築く高水工事が特徴的である。
17世紀と20世紀の土木建設時代の特徴をつぎの表にあらわす。

土木建設の時代
17世紀 20世紀
1601-1700 1901-2000
江戸初期 明治末期・大正・昭和・平成
農業を基礎としたまちづくり 商工業都市
山・川・土地(田) 山・川・土地(都市用地)
辰巳用水など 犀川ダム・内川ダム・辰巳ダム

 金沢の様子を振りかえってみると、明治維新後の金沢では、殿様が金沢から東京へ移り、侍が失業し、商人や職人に仕事がなくなり、衰退した。再び、江戸末期の人口12万人に復するのは、明治40年代に入ってからとのことである。犀川の様子はあまり変わらなかった。大正11年(1922)8月に犀川で大洪水が起きて、3年前に西洋から導入された最新技術で造られた鉄筋コンクリート製の犀川大橋が陥没破壊している。洪水のため上流から流れてきた木造橋が橋脚に引っかかり、水が溢れたものである。現在の鉄橋は大正13年に造られたものである。
 川の開発が著しく進むのは戦後である。犀川下流部、駅西地区などで商業、工業立地などで開発が進んだ。それと同時に、水の開発、治水などのために河川の整備が行われた。昭和28年8月24日には、浅野川大橋を除いて、浅野川の橋がすべて流されるという洪水があった。これを契機として、浅野川では昭和30年から中小河川改修事業が行われ、さらに昭和49年の浅野川導水路と内川ダムの完成によってほぼ治水対策が完了している。一方、犀川では、昭和36年9月16日、第二室戸台風のため、犀川堤防が決壊し、市中心部が浸水した。洪水調節機能ももつ犀川ダムが昭和41年に完成した。昭和47年から中小河川改修事業が行われており、現在も伏見川合流点付近から下流の整備が続けられている。昭和47年に認可された辰巳ダム関連事業として周辺の整備、用地買収などが行われている。まだ、本体着工に入っておらず現在に至っている。


3章 辰巳用水という土木事業
1.ミリタリエンジニアリングである辰巳用水

 辰巳用水の第1の特徴は、ミリタリエンジニアリングであり、御城の堀、殿様の庭の曲水、殿様および家臣の生活用水を供給する殿様用水である。軍事的緊張などの時代の背景のもとで実行されているミリタリエンジニアリングの側面からみると辰巳用水の理解が容易ではないかと考えている。以下、辰巳用水の築造前後から藩政時代の終わりまでの歴史をたどりながら、辰巳用水を概観する。
 16世紀末、江戸期直前の天正11年(1583)に前田利家が尾山御坊(のちの金沢城)に入城した。慶長4年(1599)、関ヶ原の戦いの前年に御城を取り巻く内惣構堀(うちそうがまえぼり)が軍事的な緊張の中で慌てて造られた。慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が終わった後も豊臣と徳川の対立が続き不安定な状況が続いていたので、慶長16年(1611)、外惣構堀(そとそうがまえぼり)を造っている。元和元年(1615)に大坂夏の陣で豊臣が
滅んだ。利家は、この年から元和年間(1615-1623)にかけて、増えた家臣に新たな居住地をつくるため、犀川の河原を埋め立てて土地を開発した。現在の繁華街である片町などはそのときにできた。犀川沿いに川除町という町名もあったが、川除というのは河原を埋め立てたところという意味である。この時に犀川の川筋の北側の一部を残して鞍月用水をつくり、末端で西外惣構堀に接続した。市役所の裏を通って香林坊の方向へ流れている用水で、御城火除堀ともいわれ、城の防火のための用水でもあった。豊臣が滅んで安定化したとはいえ、まだ騒々しい時代であったので軍事的備えのためもあったろう。寛永8年(1931)には、幕府の嫌疑を受け、加賀藩御取り潰しの危機に見舞われている。この年に法船寺門前からの大火があり防火用水の確保の名目で、翌年の寛永9年(1632)に辰巳用水が造られたが、軍事衝突に備える理由からも御堀に水が欲しかったことも想像にかたくない。
 ところで、この辰巳用水築造の総監督は町人身分の板屋兵四郎という人物である。藩の重要な仕事をなぜ、町人の板屋兵四郎に頼んだのであろうか。板屋は屋号であるので、板屋の兵四郎さんである(材木を扱う商いをしているものを材木屋あるいは木屋というが、板材を主に扱っておれば板屋と言ったのではないか)。
 外惣構堀が造られた1611年ころまでは、城の築造などと同様に軍事目的もあり、侍普請で行われていたろう。ところが世の中が落ち着き、平和になると、これらの技術をもったものを侍として雇っておく必要は無くなる上に、不必要な武士を抱えておくと幕府から嫌疑を受ける恐れもある。また、必要なときに民間にやらせたほうが、経済的な負担も軽減し、都合が良い。侍の方としても、失敗をすれば腹を切らないといけないという責任問題もあるかもしれない。豊臣が滅び、奉公先を失った侍身分の多くが、民間の土木工学者になっていった。
 町人身分の板屋兵四郎もそのような氏素性ではなかったろうか。本人(あるいは父親)が大坂からから来たという記録がある。足軽身分だったらしいが、大坂浪人の一人であろう。戦国時代がおわり、浪人があふれた時代である。別宮村(べっくむら、現在の鳥越村)に一時、滞在したらしい。このときに材木(特に板材か)を扱うことを始めて小松で材木商を営むようになった。板材は、酒樽や桶を作る材料である。塩田では多種類の桶を数多くつかう。能登の塩田関係の仕事をする内に、才覚を認められて、その近くでいくつかの用水路の開削を行った。その実績が認められて抜擢されたのだろう。
 藩の重役会議では、有名な工事の実績のある毛利某に頼もうとしたが、すでに亡くなっていた。そこで、重臣の一人の稲葉左近が配下の板屋兵四郎を登用した。稲葉左近はどのような能力を期待して板屋兵四郎を選んだのだろうか。かんがい水路をつくるため高低差を測る測量技術、土質を判断する技術、石や木材を利用した水路をつくる技術などを習得していることが必要であろう。また、従来の技術では克服しがたいとも予想されたので、中央から伝わってくる新しい技術(隧道掘削法、木樋など)を把握していることも期待しただろう。そして経験や知識をもとにプランをつくる事業計画立案能力(プランナー)、人材と資材を活用して土木工事を遂行する施工監督能力(マネージャー)を有する人物と見たに違いない。
 御城から約10km上流の犀川の雉という地点に取水口を定めた。地形が複雑で、地盤も軟弱なところと固いところがあり難しい工事であったが、寛永9年の春に掘り始めてその年に完成させた。加賀藩は当時、徳川本家につぐ、大藩であり、その成功が全国の注目を集めた日本的なビッグプロジェクトであったに違いない。案の定、その後、越前国某藩から招請があったとの手記が残っている。これに対して、加賀藩としては軍事目的性格を持つ用水に関する情報の流出を恐れたことは容易に想像できる。「招請があって板屋兵四郎がこれに応じようとしていたので、金沢城の軍事秘密を洩らすことのないように殺害した。」という手記や、「町人の設計に基づき成就したとありては国主の威厳に関すると考へられたるもの」という書伝も残っている。藩外へ招請されるのを断る口実づくりのため、暗殺されたということにしたのではないかと疑われる。実際にはその後も藩内で用水開発の仕事に従事したようである。加賀藩の公式文書はほとんど残っていないのではっきりしたことはわからない。
 このように板屋兵四郎には、暗殺されたなどの様々な言い伝えがある主な理由の一つは、「辰巳用水という、軍事技術(military engineering)的構築物を、小松の町人である板屋兵四郎、つまり、民間の土木工学者(civil engineer)が、藩の命令で軍事工学者(military engineer)として働いた」ことに起因すると筆者は考えている。
 辰巳用水以後、17世紀の中頃以降は、長坂用水、泉用水、中村高畑用水、寺津用水、小橋用水などかんがいを目的とした用水がつぎつぎと造られた。江戸期に開発された用水路は、辰巳用水を含めて犀川に10ヶ所ある。夏期にほぼ全量、かんがいに使用されので、犀川の下流で水が枯れる。日本の多くの川に共通している典型的な川である。
加賀藩の新田開発
加賀藩では17世紀後半に当たる正保(1644-1647)から貞享(1684-1687)にかけて新田開発が活発に行われた結果、それまでに約20万石が開発され、正徳元年(1711)までには、藩政時代の新田高29万石の9割にあたる26万石が開発されたという。
当時の金沢の人口
当時の金沢は(元禄のころ、1700年ころ)、人口12万人を越えたらしい。三都(江戸、大坂、京都)につぐ、大きい町であった。利家が支配した加越能3カ国で120万石、この石高で養える人口は120万人である。その約1割の12万人が武士と町人とすると、これらの人々が金沢に集まったと考えるとつじつまがあう。
現在の辰巳用水の東岩取水口は3番目のものである。当初は、現在の取水口の六百数十m下流の雉の取水口である。寛永9年(1632年)に板屋兵四郎によって造られたものである。2番目は、東岩取水口の下流約五百mのところに設けられた古河口取水口である。2番目の古河口取水口は、寛政大地震で雉の取水口が崩壊したので新たに造られたともいわれるが正確なところは不明である。川を横断して堰きとめ、水位をあげて取水している絵巻図がある。古河口付近の犀川の川幅20〜30mであまり大きくはない。その状態のままでも十分に水量を確保できたのではないかと想像できるが、安政2年に3番目の東岩取水口へ延伸されている。

辰巳用水の取水口の変遷

雉の取水口 寛永9年(1632) 366年前
古河口取水口(めおと滝対岸) 不明(1799年以前?、1840年ころ?) 200年ほど前
東岩取水口 安政2年(1855) 143年前

 安政2年(1855)の2年前の嘉永6年(1853)にはペリーが浦賀に来航し、天下が騒然とした時期であり、さらに藩財政も苦しい時期に、なぜこのような工事を実施したのだろうか。同時期に、辰巳用水の下流では、城下の配水のために石管の布設を進めている。これらは軍事的な理由による非常時に備えたのではないだろうか。川を横断する堰や木製の取水口が壊れたりするので、毎年、補修が必要であったろう。川の水の流れがぶつかる、水衝部である東岩地点では、川を横断する堰は必要なく、岩をくり貫いた取水口であれば損傷も少なかったろう。また、城下町の配水に地下に埋設された石管を用いれば、戦闘が起きても水の供給は可能である。
 さらに同時期に、200以上の部屋があり、2000坪の豪邸である竹沢御殿を取り壊している。藩財政が逼迫しているこのときに、なぜ前藩主が築造して10年も経っていない大御殿を撤去したのだろうか。この跡地に曲水を造ると同時に霞が池を掘っている。これは作庭を名分にした、非常時のための貯水池築造工事ではなかったろうか。ミリタリエンジニアリングとして辰巳用水を見るとこのように推理できるのではないか。
 明治期に入っては、かんがい用水の管理組合の管理下におかれ、主としてかんがい用水として利用され、今日に至っている。

2.辰巳用水の土木技術
 技術は突然、単独で現れるわけではなく、現れる理由があり、背景がある。日本では外国から導入することによって技術革新が起こるのが普通である。江戸期の技術革新は、15,16世紀の《明》あるいは16世紀の終わりころから渡来した西欧人がもたらした情報によるであろう。辰巳用水の特徴的な技術として一般的にあげられているのは、緩勾配の用水路技術(測量技術)、水トンネルの技術、木樋の技術(伏越しの理で金沢城内へ揚水)などである。
 辰巳用水の土木技術については、『兼六園全史辰巳用水』、『加賀辰巳用水』、『加賀辰巳用水東岩隧道とその周辺−辰巳ダム建設に係る記録保存−』、中井安治氏の『辰巳用水』などに記述はあるが、正確な記録が少なく、本当のところはあまりよくわからないというところである。簡単に、私見をまじえて以下に説明する。
測量の技術
 水路築造に必要な測量技術は、高低差、距離を測る技術である。少々、曲がりくねっても高低差を確保すれば水を流すことができる。水平を見る技術は「水盛りの法」があり、距離をはかる技術は「町見(町を見る)」という。木製の箱に水を入れて水平面をつくりこれを利用して測る「水盛りの法」を応用した水準器(レベル)があったかもしれないが、辰巳用水をつくるにあたり、どのような方法で測量したか明らかではない。
 辰巳用水完成の22年後の承応3年(1654)に造られた玉川上水では、「日本土木史 明治以前」によると「伝うる所によれば、高低等の測量はもっぱら夜間を利用して、近き所は人夫に線光を採らしめ、遠方は提灯を振らしめ、双方の火を見通しつつ土地の高低を測り、再三之を反覆して水路を定めたりといふ。」とある。どのような水平を測る器具をつかって、ちょうちんや線香の光を見通して高低差を測量したのか説明がないが、若干の推理を加えてみる。
辰巳用水の勾配は、中流部の緩いところで1000分の1に近い。この精度で測量するためには、測量のための器具上の基準となる線を仮に1mの長さとするとこの1mの長さの中で1mmの誤差に収まるように水平にした上で、その延長線上の100m先の大きさを持たない点の目印を確認できて、1/1000の精度を確保できる。目印となるものが、線香やちょうちんでは、100mで50cmの誤差におさめるというところがせいぜいだろう。これは、1/200の精度になる。この精度の簡単な測量器具と測量法で、1/1000の精度にあげるためには、熟練して勘をみがき、繰り返して行うことで測定誤差を減少させ、精度をあげたのだろうか。
 当時、鉱山では技術革新があり、坑道掘りの技術がでて飛躍的に金属の算出量が多くなったという(坑道掘りとは、木材などの支保工で崩壊を防ぎながらトンネルを掘削する方法であり、この方法により長距離のトンネル掘削が可能となった。)。また、湧水の多い坑道の場合には排水坑としての役目を果たす疎水坑掘りという技術が使われた。坑道をめぐらし、疎水坑を造るには、少なくとも水平、垂直方向を知る必要がある。水平方向は、コンパス(羅針盤)がつかわれたようである。佐渡金山の坑道の中では垂直方向の傾斜を測る傾斜器(四方矩といった)が使われた。これらの器具を使用して測量する場合、少なくとも三角関数、ルートの解法などの計算ができないと困るが、和算と呼ばれた数学を用いて計算された(和算も西欧や明からの学問の影響を受けて成立したものであろう)。当時、ジパング(日本)は黄金の国で金の産出額は世界一、鉄砲生産も世界有数であった。鉱工業が著しく栄え、これに伴って、鉱工業技術も飛躍的な進歩をとげた。
木樋の技術
 木管は木樋といわれた。木樋の新技術は、天正18年(1590)〜寛永6年(1629)ころ築造された神田上水で現れる。江戸のまちづくりをするにあたり、地下水の水質が悪かったので、家康が江戸の住人に上水を供給するため造ったものであり、我が国の本格的な水道の嚆矢といわれる。水源の井の頭池から掘割で流され、まちの中では石樋や木樋で用いて武家や町屋へ配水され、江戸城へも導水された。
 各地で都市が形成される過程で、神田上水の木樋の技術が全国的に広まった。昭和56年の道路工事の際に、金沢市石引町の辰巳用水沿いで角形の木樋が発見されている。神田上水で用いられた木樋と同じものである。辰巳用水築造と同時期に、辰巳用水と平行して木樋が布設されたようである。
 寛永11年(1634)に伏越の理によって、兼六園から金沢城内の二の丸まで水を導いているが、木樋の技術を使ったものである。10m弱低い石川門前の土手(現在は石川橋)を通過して二の丸に水を供給され、二の丸の泉水、家事用水に使用された(石引水門から伏越とする意見もあるが、少なくとも兼六園付近で維持管理用の枡が設置されて圧力が開放されることになるので、伏越は兼六園からと考えてよいだろう)。伏越の理は、高いところにある水が低地の隙間を見つけて湧き出したり、噴出したりする現象を注意深く、観察しておれば、わかることであろう。神田上水では川を横断するときなどに伏越管が使われていたようである。低部で水圧を抑えることができる耐圧管が必要となるが、材料などが進歩していない時代にかなり、難しい技術であったに違いない。
 木管は、さまざま工夫された。"独木樋(まるきどい)"は、角形の木管であり、四角の木材を内部を凹形に削ったものに蓋をして皆折釘(かいおれくぎ)で打ち付けて止めたものである。水圧に耐えるため、二つ割管を合わせた木樋(二つ割で両方に溝を切ってパッキンをはめて漏水を防止し、かつ銅輪巻きとし、円形に穴をあけた石を継ぎ手としたもの)が工夫された。さらに、丸太を内部をくり貫いた"くり貫き木管"も使われた。順次、改良が繰り返されたが、木管は腐る。特に、合わせたところや継ぎ手からの漏水に悩まされたのではないだろうか。藩政後期には、万年樋といわれ、耐圧にもすぐれている石管(せっかん)あるいは石樋(せきひ、石をくり貫き、継ぎ手が改良された)が開発された。

水トンネル開削の技術
 最初、鉱山では、たぬき掘りといって小さな横穴をほる方法、つるし掘りといって小さな竪穴をほる方法などがもちいられた。これらの方法では、換気、照明、排水、土砂の崩壊などの対策が不十分であるため、地表から深いところまで掘ることができなかった。16世紀ころから、坑道掘りの技術が用いられるようになった。山名宗全によって再興された、兵庫の生田銀山は新しい坑道技術を取り入れた先進的な鉱山であったようである。丸太などの支保工を用いて土の崩壊を防ぎ、長距離を掘削する方法を用いた。長い距離を掘れば、湧出してくる水にも悩まされることになる。湧水を排水するために、疎水坑(そすいこう、排水坑のこと)掘りの技術が工夫され、生野銀山で用いられた。掘り進むうちに、固い地層や柔らかいところなど様々な地層にでくわす。この状態を観察しながら、掘削具を変えて掘削する寸甫切り(すんぽぎり)という技術も発達した。辰巳用水の水トンネルでは柔らかい岩をつるはしで、固い岩をたがねで掘り崩していったという。岩山を開削する金掘り人足(黒鍬者ともいわれる。加賀では宝達金山(ほうだつきんざん)の発掘にあたっていた者が閉山後、宝達者といわれ、多くの鉱山で採掘に従事した)が従事した。
 さらに、辰巳用水の水トンネルでは、約30m程度の間隔で横穴が掘られ、この横穴から上流下流に向かって掘削が行われた。辰巳用水の前に造られた赤穂用水、五郎兵衛新田用水の水トンネルでは横穴工法を用いていない。赤穂水道では、元和2年(1616)に千種川の上流2里あまりのところから、山を52間(94m)くり貫き、トンネルを造ったものである。五郎兵衛新田用水では、尾根を貫いてトンネルが掘られた約240mのトンネル、岩壁の横腹を抉って造った溝を造った。横穴工法は秋田藩の岩堰用水を参考にしたのではないかとの推測がなされている。
 辰巳用水築造後、金沢の用水路の開削では、トンネルが掘られるようになる。
 寺津用水、正保3年(1646)、10.7km(トンネル0.3km)
 長坂用水、寛文11年(1671)、10km(トンネル1.3km)などがある。

3.歴史的土木文化遺産としての辰巳用水
 一般的に土木構造物は、道路や用水路のように社会の活動を縁の下で支える、地味な存在であり、これを文化財などと認識することはあまりない。建築構造物(例えば法隆寺のような建築物)のように創建当時の様子をそのまま残しているということは少なく、補修や改築が繰り返され、築造当初の姿がほとんど残っていないものも多いことも、文化遺産と認識されにくい理由の一つである。
 では、辰巳用水は歴史的土木文化遺産であろうか。辰巳用水が歴史的土木文化遺産かどうかについて語るには、土木文化遺産は何かということを語らなければならない。土木文化遺産とはなにかということを説明するためには、文化遺産とは、文化とは何か、について言及しないと明確にならない。順を追って考える。
・文化とは、文化遺産とは
・土木文化遺産とは
・辰巳用水は歴史的土木文化遺産か

文化とは、文化遺産とは
 文化を理解するためには、文化と文明をならべて比較するとわかりよい。文化の定義は、定義する人の数ほどあるといわれるように多くの定義がある。そのうちの3つをあげる。
・ 文明(人・装置・しくみからなる社会システム)の精神的側面が文化である
・ 文化と文明の違いは、特殊性と普遍性に分けられる
・ 文化は精神で、文明は物質である

・ 文明(人・装置・しくみからなる社会システム)の精神的側面が文化である
 梅棹は、「文明は人、都市・道路・土木構造物を含む建造物などの装置群、そして法律・制度・習慣・倫理・礼儀などのしくみからなっており、その文明の精神的な側面が文化である。遺伝を除く、すべての精神的な側面が文化である。」と理解すればわかりやすいのではないかという。

・ 文化と文明の違いは、特殊性と普遍性に分けられる
 司馬遼太郎は、文化と文明を特殊性と普遍性に分けて考えるとわかりやすいと説明している。この定義からするとつぎのように言うことができる。
地方が文化であり、国際性が文明である。
日本語が文化であり、米語が文明である。
納豆が文化であり、ハンバーグが文明である。
和服が文化であり、ジーパンが文明である。
味噌汁が文化であり、カップラーメンが文明である。

・ 文化は精神で、文明は物質である
 精神文化などといわれる一方、物質文明、機械文明、文明の利器などといわれるので、文化は精神で文明は物質を表すということができる。
 いずれにしても文化は精神的所産であり、簡明に三番目の定義に準じて、文化を精神あるいは心と考えてもよいだろう。《遺産》は残されたもの、《財》は貴重なものという意味であり、文化遺産あるいは文化財は、人の心を充足するためにいつまでも残したい貴重なものと定義できよう。

土木文化遺産とは
 土木構造物の中の文化遺産をどのような評価基準で選べばよいのだろうか。文化財保護法による文化財指定基準では、意匠、技術、歴史、学術的価値、流派的あるいは地方的特色をあげている。元名古屋大学の馬場教授は多数の土木構造物を評価した経験から導いた評価項目として、意匠、系譜、技術の3項目をあげた。
 鹿児島甲突川の石橋《西田橋》を例に取り上げ、この評価項目で特徴をあげると、四連アーチ形状でバランスのとれた力強い美しさがあり、岩永三五郎という名人の監督によるものであり、前後の水切りなどの精緻な石組みが見事であるということができるのであろう。
 人工ではないが、自然の創造物である山岳を評価した深田久弥の百名山の評価基準が参考として興味深いので、つぎにあげる。
品格(厳しさ、強さ、美しさなど)
歴史(人とのかかわりなど)
個性(形体、現象、伝統など)
加えて、標高1,500m以上である。北陸では立山や白山などが名山としてあげられている。
 女性に例えると、容姿端麗、高学歴の才媛で、キャリアウーマンで自立した女性とでもなろうか!

評価の基準を並べて比較するとつぎの表のようになる。
                                                  評価の基準

馬場俊介
(土木工学者)
辰巳用水 深田久弥の
日本百名山
女性に例えると
意匠
(外観、個性)
取水口や水トンネルの外観 品格(厳しさ、強さ、美しさ) 容姿端麗
系譜 板屋兵四郎の監督による、366年の歴史 歴史(人とのかかわり) 高学歴の才媛
技術 当時の最新のトンネル技術 個性(形態、現象) キャリアウーマン
付加条件 全延長約11km内、トンネル約4km 加えて標高1500m以上

辰巳用水は土木文化遺産か
 辰巳用水を各項目で評価するとつぎのようになろうか。
意匠 東岩取水口から下流の犀川浄水場あたりまでの区間はほとんど水トンネルとなっていることもあり築造当初の状態を保っている。直立した崖の底の取水口の外観、岩盤を掘削し粗削りのままの外観を残している水トンネルの壁面などが、当時の粗末な道具を用いて苦労して掘削した様子をうかがわせる。
系譜 有能な土木エンジニア板屋兵四郎などの手によるもので366年の歴史をきざんでおり、日本三名園の一つである兼六園へ現在も水を供給している。
技術 疎水坑の技術、寸甫切りの技術、横穴工法などの当時の鉱山の最新のトンネル技術などが応用されており、4km弱の水トンネルが築造当初の状態で残されている。


4章 辰巳ダムという土木事業
 辰巳ダムは、石川県が管理している二級河川犀川の上辰巳地点(河口から20km地点)に計画された、主として洪水調節を目的とした多目的ダムである。犀川水系には、すでに犀川ダム(昭和41年に完成)、内川ダム(昭和49年に完成)と2つの洪水調節機能を有する多目的ダムがあり、辰巳ダムは3番目となる。
 石川県が、犀川水系の安全度を見直し、辰巳ダム計画を策定したいきさつはつぎのとおりである。「昭和47年からの第4次治水事業5カ年計画の策定を機に、都市河川の重要性に鑑み、洪水被害を防ぐため従来からの流出解析について、見直しを行うよう建設省から行政指導があり、犀川についても全面的に流出機構の検討を加えた結果、基準点(筆者注;犀川大橋地点)の洪水流量を1,920m3/secとしたうえで、昭和47年12月27日づけで建設大臣の工事認可を得たものである。」その見直しの理由は、「従来遊水池的機能を果たしていた田畑や山林が宅地化したため出水量が増加した。見直した結果、ダムの建設の必要性を生じた。」と説明している。
 昭和47年(1972)に認可されるためには、事前の準備が必要であり、辰巳ダムの素案が作成されたのは、昭和45,6年頃だろう。昭和41年に犀川ダムが完成し、昭和49年に内川ダム、浅野川導水路が完成する予定となっていた時期である。100年確率の降雨に対して金沢の安全を確保するための工事が進行していた時期に、また、見直して100年確率の降雨に対して金沢の安全を確保するために計画が練り直されていたことになる。
 石川県土木部の計画はおおむねつぎのようなものである。100年確率の降雨に洪水を貯留関数法で算出し、犀川の基本高水流量を設定した。基本高水流量は、ダムなど洪水調節のための施設がないものとして算出した河川の流出量であり、犀川大橋地点で1,920m3/secと予測した。最も川幅が狭く流下を制約している犀川大橋地点の川幅の拡幅の可能性については、用地買収などのために1,000億円もかかるので、拡幅の実現は不能であると説明している。現在の川幅では、流下能力として毎秒1,230 m3/secが限界である。そこで、犀川、内川、辰巳の3ダムの働きにより、犀川大橋地点で、690 m3/secの水量を削減し、1,230 m3/secまで低下させることにより、洪水量を安全に通過させることにした(筆者注:内川ダムは浅野川から導水される250 m3/secを相殺するものであるから、実際は犀川・辰巳ダムで690 m3/sec削減して1,230 m3/secまで低下させるということになる)。

1.辰巳ダムという多目的ダム

 カヌーイストの野田知佑氏は、日本中の川をカヌーで下ってきた体験から、ダム等によって川が改変されていくことに対して、つぎのように批判する。
「この20年間で造られたダムのうち9割は不必要なものだ。建設省は多目的ダムと言っているが、実は無目的だ。」 感覚的、感情的な意見であるので、技術者としてはそのまま同意できるわけではないが、最近の徳山ダム(注)の事例などを見ると説得力がある。
(注)長良川河口堰で開発される水さえ需要の見通しが立たないにもかかわらず、さらに水の開発のために造られようとしている。少なくとも一時休止して水需要の動向を確認するべきである。

 多目的ダムであることが強調される辰巳ダム計画を見よう。
辰巳ダムの目的は、治水(洪水調節)、河川維持用水の確保、発電ということになっている。
@ 治水対策として、ダム地点の計画高水流量800m3/secのうち330m3/secの洪水調節を行い、犀川下流域の洪水被害を防除する。
A 流水の正常な機能の維持のため、犀川ダムおよび内川ダムと相まって、 犀川沿川の既得用水の補給ならびに河川維持水量の確保等を図る。犀川大橋で0.81m3/secの流水量を  確保するために、辰巳ダムで0.67m3/sec(6万トン/日)を流す。
B 辰巳ダムの放流量を利用し、最大使用量2.0m3/sec、最大出力340kwの発電を行う。
このうちのAとBは、目的ではないということが以下の簡単な説明で明確になる。

目的という「河川維持用水の確保」とは何か
 維持用水が、どういう理由でどれだけ必要であるのか、県は説明していない。犀川大橋で0.81m3/secの流水量を確保するために、辰巳ダムで0.67m3/sec(6万トン/日)を流すとしているが、0.81 m3/secの必要性の根拠が不明で、辰巳ダムの0.67m3/sec(6万トン/日)の根拠の説明も無い。石川県は、辰巳ダムの貯水量の3割の240万トンを渇水時に、1日当たり6万トン、40日間放流するとしているが、なぜ6万トン必要であるのか、理由が不明である。
 水量の根拠らしきものが、昔の地元新聞に紹介されている。昭和50年度予算原案で、辰巳ダムが採択されたときの新聞報道によると、
「辰巳ダムの効用の第一は、流量維持、つまり清流を取り戻すことだ。現在、犀川は夏の渇水期になると同市内の犀川大橋ワキにある三ケ用水のセキから下流が水量ゼロのカラカラに干上がるが、このダムが完成すると幅十メートル、深さ十センチの水が流れ、渇水期ばかりでなく、水質汚染の歯止めとしての機能が期待される。流量は毎秒七トン、日量にして六万トン。この量がそのまま夏の渇水期にも流れることになるが、現状ではちょうど九月上旬の流量にあたるという。」(北国新聞、昭和50年1月8日朝刊)である。
 報道内容の毎秒七トンは、日量六十万トンになるので、十分の一の0.7トンの誤りである。後段で九月上旬の流量にあたるといっているところを見ると、単純な誤りではなさそうである。意図的に誤報を流したか、担当者が誤って理解していたかであると思われる。ともかくとして、毎秒0.7トンが流れれば、堰で幅10メートル、水深10センチ程度、流れることになるとしているが、実際の川幅は60mくらいある。水深10センチとすると、毎秒4.2トン流さないといけない。毎秒0.7トン程度であれば、堰を越えて流れることはなく、堰のわきにある魚道から流れ、下流はわずかに流れができる程度である。結局は、0.7トンも10mも10センチも何の根拠もない数値である。
 これは説明できない理由がある。民間の金融機関であり預金者もいなかった住専処理に、何の関係も無い国民の税金で負担したことと類似している。(どうして、我々の払った税金で投資に失敗した金融機関を救済しなければならないのか。)日量6万トン/日は、辰巳用水の最大時水量に相当する。実は辰巳用水のための水だったのである。名目上、犀川への河川維持用水としているがダム直下の辰巳用水に全量、送られるので、実際に下流へ流す量はゼロである。名目が辰巳用水となれば、その利益に見合った費用負担、つまり、受益者がその受益に応じて辰巳ダムの建設費、維持費の負担をする必要がある。貯水池容量比で配分(アロケーション)すれば、建設費だけでも3割の60億円ほどを辰巳用水土地改良区が負担する必要がある。ダム建設の費用が2桁小さい数値としてもとても負担できるとは思えないので、河川維持用水の名目をつけただけだろう。管理者である辰巳用水土地改良区が、東岩取水口を壊すことに対して付けた同意条件であり、ダム建設の目的ではない。

目的という「発電」とは何か
 「昨今のエネルギー事情から国内資源エネルギーの開発が叫ばれており、辰巳ダムにおいても、これらの要求に応え、最大出力340kwの水力発電所を建設し、水資源の有効利用を図るものである。」と石川県河川開発課は説明する。エネルギー事情のことまで、河川開発課が責任をもっているわけではないと考えられるので、少なくとも経済的になりたち、黒字になるという根拠があってのことだろう。そうであれば、費用のアロケーションを行い、支出、収入を明らかにして、説明することが必要である。発電できるのであればそれによって利益を受けるものがあり、その費用を負担するのが当然であるが、費用負担の配分(アロケーション)はなされていない。
 アロケーションがなされていない主たる理由はダム貯水容量の発電用への割り当ては、ゼロであるからだろう。つまり、ダムに流れ込む水量が多いときは発電できるが、流れ込まないときには発電できないということである。では、辰巳ダム地点の川の流況はどうか。辰巳ダム地点の上流約4kmのところにある上寺津発電所の調整ダムでは、農業用水、上水道用水、発電用水(ここから、辰巳ダム計画地点の下流にある新辰巳発電所へトンネルを通して送られる)として夏の渇水期にほとんど全量利用する。したがって、上寺津ダムから下流は、夏場わずかな量しか流れない。東岩取水口地点では辰巳用水への供給が不足するほどである。辰巳ダムでは、秋から冬、春と川の水量の多いときは発電できるが、夏場にはほとんど発電できない。その結果、夏場の消費量の大きいときに発電できなくて、電力が余っている春や夏に発電することになる。
小規模発電でも立地環境によっては有効な場合があろう。離島などで、発電機を用いて発電する場合、油代が節約できるというメリットがある。ところが、辰巳ダムの立地環境を考えると、大量に電力を消費する市街地に接しており、大規模な発電所から電力が供給されている。辰巳ダムの発電によってメリットが発生する余地はない。
さらに、水質汚濁防止のために、県は曝気装置(藻類増殖抑制のための空気揚水筒か?)などを導入するという案もあるというが、夏場に必要なこの曝気装置を稼動させると、発電どころか、大量の電力を消費することになるのではないか。一番、電気が不足しているときに発電できず、電力が必要ない時に発電する施設を発電すると主張できるのであろうか。
結局は、ダムを築造すると高低差があるから、発電機をおいておこうかという程度のものである。水面ができるのでボートを浮かべておこうかと同じ発想なのである。このダムの目的にレクレーションの場をつくることを入れていないのと同様、目的として発電をあげる理由はない。

唯一の目的となった「洪水調節」について考える
 犀川大橋地点の基本高水量は、計画のたびに、930→1,600→1,920m3/secと拡大し変更されている。昭和30年から昭和40年代にかけて、計画立案されたものである。急に降雨のデータなどが増えるわけではなくほとんど同じである。2回目と3回目の見直しでは100年確率の降雨に対して計画がなされているので条件はほとんど同じである。安全度を増すのはよいとして、明確な根拠があるのか、調べてみることにした。
 県は、市民団体の要求を受けて、『犀川水系辰巳ダム治水計画説明書(平成7年2月)』(以下、『計画説明書』と呼ぶ)を公表している。どのようにして基本高水量を決めたかがわかる。
 専門外のものにとっては、若干、技術的でわかりにくい貯留関数法によって計算されており、計算の過程でさまざまな係数値の仮定がなされているが、基本高水量(洪水量)を求めるには、つぎの3つの要素を掛け合わせたものとして表現できる。
 基本高水量(洪水量)(m3/sec)=面積(ha)×降雨の強さ(mm/hr)×流出割合(%)

 「面積(ha)」は、県が作成した数値を正確なものとして検討しない。「流出割合(%)」については、筆者が作成した『犀川総合開発事業「辰巳ダム計画」の土木技術的問題点』(平成7年7月)で記述したように、おおむね妥当な数値と考えられる。

 残る「降雨の強さ(mm/hr)」について、県の『計画説明書』を検討した結果、1点の問題点と2点の重大な誤謬を確認した。そして、この誤謬を積み重ねて得られた、実態とかけ離れた数値を最終的に排除するということもできたのであるが、技術的根拠がなく、最終的な決定を下した結果であることがわかった。
まず、洪水量を最終的に決定した際の県の判断を見てみよう。

技術的根拠の欠けた基本高水流量(洪水量)の決定
県の作成した『計画説明書』25頁に載せられた犀川水系基本高水計算結果はつぎのような表である。
犀川水系基本高水計算結果

降雨波形名
年月日
犀川ダム
地点
内川ダム
地点
辰巳ダム
地点
犀川大橋
地点
河口地点
地点
56.1Km2 34.5Km2 77.1Km2 150.2Km2 256.3Km2
S.27.6.30 950 520 1,090 1,910 2,840
S.39.7.7 290 190 350 550 770
S.47.9.16 860 470 870 1,470 -
S.49.7.9 950 390 890 1,300 1,910
計画ハイエト 1,280 710 1,260 1,920 2,700

ここで、懸案の犀川大橋地点の洪水量を抜き出すとつぎのようになる。

降雨波形名
年月日
犀川大橋地点
S.27.6.30 1,910 m3/s
S.39.7.7    550
S.47.9.16 1,470
S.49.7.9 1,300
【 計画  1,920 】

 県は降雨データを解析してこの4つのケースを抽出し、最も大きい数値であるS.27.6.30をもとに計画を決めた。これらの4つの数値は、いずれも100年確率の降雨があった場合に犀川大橋地点を流れる洪水量である。犀川大橋地点では、1,230 m3/sの洪水まで流すことができるが、これを越える量については、なんらかの洪水対策をほどこさないといけないというわけである。
 ここで、すでに存在している犀川ダムの洪水調節効果が犀川地点で約300m3/sあるとする県の主張をいれると1,230 m3/s+約300m3/s=1,530 m3/s
となる。つまり、1,530 m3/sまでの洪水量まで安全である。(既存の内川ダムは浅野川導水路からの流量と相殺されるので、プラスマイナス0である。)
 犀川大橋地点の流量から、1,530 m3/sを控除するとつぎのようになる。

降雨波形名
年月日
犀川大橋地点 犀川大橋地点
S.27.6.30 1,910 m3/s −1,530 m3/s 380 m3/s
S.39.7.7 550 −1,530 - 980
S.47.9.16 1,470 −1,530 - 60
S.49.7.9 1,300 −1,530 - 230
計画 1,920

 S.27.6.30以外は、すべてマイナスとなる。マイナスは洪水を流すための余裕があることを示している。S.27.6.30のケースのみ、問題となる。県は、 S.27.6.30のケースを根拠に、この洪水量を調節するために辰巳ダムが必要であると主張している。

技術的な3つの問題点
 県が作成した「犀川水系基本高水計算結果」から、基本高水量を決定した過程で技術的に3つの問題点を指摘することができる。
@ 国の基準(注)では「通常10降雨以上」としているが、4降雨しかない。
A 国の基準では「既往の降雨の選定に当たっては、大洪水をもたらしたものやその流域において特に生起頻度の高いパターンに属する降雨を落とさないように注意しなければならな  い.」とあるが、昭和28年8月24日の大洪水や昭和36年9月16日の犀川堤防決壊をもたらした洪水など大きな被害をもたらした洪水のケースがのせられていない。
B 表の4ケースはいずれも100年確率の雨を想定した洪水量であるが、最大(1,910)と最小(550)では3.5倍の差があり、技術的に重大な問題であるにもかかわらず、この差について  説明もなく、配慮がなされていない。
(注)国の基準:昭和51年改定建設省河川砂防技術基準(案)計画編では、計画降雨の決定にあたり、「計画降雨の時間分布及び地域分布は、既往洪水等を検討して選定した相当数   の降雨パターンについてその降雨量を、……によって定められた規模に等しくなるように定める」と記述している。そして、その説明として「既往の降雨の選定にあたっては、大洪   水をもたらしたものやその流域において特に生起頻度の高いパターンに属する降雨を落とさないように注意しなければならない。選定すべき降雨の数はデータの存在期間の長   短に応じて変化するが、通常10降雨以上とし、その引き伸ばし率は 2 倍程度に止めることが望ましい。

第1点目は、理由は明らかではないが、データ不足とすれば、データを集めるべきである。
第2点目についても、理由は明らかではないが、このケースで計算した結果が著しく小さかった(大雨が降っても洪水は起こらないことになる!)のではと疑われる。
第3点目は、犀川大橋地点の基本高水量は、550〜1,910 m3/secと大きくばらついており、極大値と極小値との比は3.5倍である。統計的な手法によれば、これだけ上下に差がある 場合、著しく誤差があり過大な数値であるかもしれないという理由で極大値、極小値は排除することが適切 と考えられるが、飛びぬけた極大値をとる技術的根拠が不明である。

 少なくとも、100年確率の雨が降っても4つのケースのうち、3ケースはすでに安全である。75%は安全であるともいえる(4ケースが全体の傾向を反映しているものと仮定)。統計的に75%はかなり安全な数値である(例えば、今後の100年間に100年確率の雨が降る確率は、63.4%である)。この結果に基づいて、安全であるからダムを造らないという結論もあり得る。この検討結果から、安全だからダムを造らないという結論、安全ではないからダムを造るという結論の選択のために重大な決定をせまられる。200億円(税金)もの費用がかかるからである。このような重大な決定を計画書の中で、上記の3点の技術的な説明の不足にもかかわらず結論づけられている。計画洪水量が提示されると受け取る側は純粋に土木技術的判断によって求められたものと勘違いをしやすい。決定の内容を見てみると、計画洪水量を決定する際に、技術的な根拠も不足のまま、住民あるいは議会に諮って判断するべき行政的な判断を技術検討書の中で一方的に下している。

昭和27年6月30日の雨(降雨波形)は著しく誤差があり過大な数値である
 決定の根拠となった昭和27年6月30日の雨は、「著しく誤差があり過大な数値であるかもしれない」と述べたが、このことを以下で立証する。
       犀川水系基本高水量を決定する際の根拠となった昭和27年6月の実際の降雨データは、つぎのとおりである。(県の「計画説明書」のデータを翻案)

年月日 時刻 金沢 犀川ダム 鶴来
昭和27年6月31日 5時〜6時 36.6 計測されていない 26.8
6時〜7時 30.3 22.2
7時〜8時 22.0 16.1

 県は、犀川ダムのデータが計測されていなかったので、金沢のデータを流用して次のように仮定した。

年月日 時刻 金沢 犀川ダム 鶴来
昭和27年6月31日 5時〜6時 36.6 36.6 26.8
6時〜7時 30.3 30.3 22.2
7時〜8時 22.0 22.0 16.1

                                          *犀川ダムのデータは金沢のデータを流用
このデータを引き伸ばし率(注)2.452を乗じて以下の表のような100年確率の降雨を想定した。

年月日 時刻 金沢 犀川ダム 鶴来
昭和27年6月31日 5時〜6時 89.7 89.7 65.7
6時〜7時 74.3 74.3 54.4
7時〜8時 53.9 53.9 39.5

(注)データ数が不足し100年確率の降雨記録が無い場合がほとんどであるので、既存の降雨記録をもとに仮想の100年確率の雨をつくるための手法である。

このように仮想した降雨は、前述したように、降雨の強さについて1点の問題点と2点の重大な誤謬を含んでいる。降雨の強さについての1つの問題点と2つの誤謬はつぎのとおりである。
問題点 = 過大な1時間降雨量
誤謬1 = 長過ぎる降雨時間
誤謬2 = 広過ぎる降雨空間

「問題点 = 過大な92mm/hr1時間降雨量」を検討する
( 80mm/hr程度が妥当 )
県の計画では、100年確率の1時間雨量強度は、金沢気象台の昭和15年から昭和48年までの34年間の記録から毎年の最大値を選択し、確率紙を用いて求め、 92 mm/hrと決定している。
この数値は、当地域にとっては著しく大きな数値であり、金沢気象台の話によるとゲリラ的な豪雨のようにスポット的なものはあっても、大きい範囲の豪雨は予想しにくいという。実態との照らし合わせ、少ないデータ数による誤差などを勘案すると、計算値をそのまま鵜呑みにするのは経験ある技術者の判断とはいえない。
 34年間の記録によると、50mm/hr台までの降雨がほとんどであり、60mm/hrを超えるものは、2データである。
昭和25年9月18日     77.3mm/hr
昭和28年8月24日     75.7mm/hr
 この2つの数値は近似しているが、雨の規模(広がり)には大きな違いがある。この2回の降雨による実際の洪水被害はつぎのようなものである。昭和25年の雨のときはほとんど災害がなかったのか災害の記録が残っていない。昭和28年の雨のときには犀川ではほとんど被害が発生していないが、隣接の浅野川では1橋を残してすべて流失するという大災害を起こしている。昭和25年の雨は気象台付近のスポット的なもので、いわゆるゲリラ的な豪雨であったろう。また、昭和28年の降雨は、浅野川流域(医王山一帯)に豪雨があったもので、懸案の犀川流域にはあまり降らなかったのである。これらの実態を勘案すると、計算値は計算値として採用するにしても、そのまま鵜呑みにするには問題がある。
 また、34年間という少ないデータから100年確率の降雨強度を求める場合、かなりの誤差が入り込むことになる。ちなみに筆者が最小二乗法で求めた結果によると(『犀川総合開発事業「辰巳ダム計画」の土木技術的問題点』」平成7年7月)による)
 昭和15〜48年の34年間のデータでは 95 mm/hr
 昭和15〜48年のデータに平成6年までのデータを加えた55年間のデータでは 85 mm/hrと10mm/hr、比率にして11%減少する(洪水量を計算するとダムの有無を左右する大きさである)。
 さらに、昭和15〜平成6年のデータから昭和25年のゲリラ的豪雨を排除して計算すると、79 mm/hr
となる。筆者の技術的判断としては、80mm/hrが妥当な数値であろう。

 92mm/hrという大きすぎる雨量を採用すると、実際とどう矛盾してくるかというと、集水区域内に雨が降って1時間くらいで集まってくる地点で異常に大きい水量が発生することになる。例えば、既存の犀川ダム地点では、92mm/hrの雨が降り始めて1時間くらいで集まってくる。その結果、この計画では、犀川ダム地点で950m3/sec(前計画570の1.7倍)、内川ダム地点では、710m3/sec(前計画440の1.6倍)となっている。実際の降雨は、手元の資料によると、32年前に完成した犀川ダム地点で昭和42年7月12日のピーク流量185m3/secにすぎない。

「誤謬1 = 長過ぎる降雨時間」を検討する
( 70mm/hrを超える大きな雨は2時間続かない!)


 引き伸ばし率を2.5倍(2.452)という過大な数値を採用したため降雨の時間分布が地域特性から大きく逸脱してしまった。

誤謬 その結果 計算手法の思想から逸脱
引き伸ばし率 2.5倍 36mm+30mmの雨が90mm+74mmに 時間的要素が地域特性から逸脱

 引き伸ばし率(注)の国の基準では「2倍程度に止めるのが望ましい」となっているが、辰巳ダム計画での引き伸ばし率2.5倍と著しく大きい。その結果、36mm,30mmと続いた実際の雨が、90mm(36 mm×2.5倍),74mm(30 mm×2.5倍)の降雨に化けている。当地域では30mm程度の雨が何時間も続くことはよくある。70mm以上の雨が2時間続くことはない。金沢地方気象台55年間の記録で1時間70mm以上の雨は2回しかない。前後4時間の降雨記録はつぎのとおりである。
(注)引き伸ばし率について: データ数が不足し100年確率の降雨記録が無い場合がほとんどであるので、既存の降雨記録をもとに仮想の100年確率の雨をつくるための手法である。   昭和51年改定建設省河川砂防技術基準(案)計画編では、「その引き伸ばし率は 2 倍程度に止めることが望ましい。

年月日 時刻 金沢地方
気象台
倉谷
観測所
犀川
ダム
備考
時〜 時 mm/hr mm/hr mm/hr
昭和25年9月18日 14時〜15時 時間降雨記録なし なし 15:40-16:40までの
1時間に77.3mmの
降雨
15時〜16時 48.3
16時〜17時 38.9
17時〜18時 6.8
昭和28年8月24 日 7時〜8時 0.5 時間降雨記録なし なし 8:41-9:41までの
1時間に75.7mmの
降雨
8時〜9時 28.2
9時〜10時 49.5
10時〜11時 -

                           出典:金沢地方気象台の記録による
 4時間のトータルでも78mmと94mmにすぎず、この70mmの雨が1時間ほどで終息したことがわかる。2時間続けて降ることはなく、1時間の豪雨の後は著しく小さくなるのが当地域の通例である(豪雨をもたらす1個の雨雲や積乱雲は普通1時間くらいで消滅する)。
倉谷観測所では、昭和36年9月16日の18時から19時の間で1時間78mmが観測されているが、その前後の1時間はやはり、18mm、16mmとなっている。
 このような実態とかけ離れた降雨が2時間以上続くという結論を導いたのは、引き伸ばし率という手法を誤って用いているからである。2.5倍が大きすぎるからであり、上限を2.0とするべきである(単純に説明すると犀川大橋地点の洪水量が2割減る)。吉野第十堰改築事業で技術評価した河川工学者の一人はつぎのように説明している。
「計画対象洪水の降雨パターンの選定には、昭和51年改定の建設省河川砂防技術基準(案)に記述された「実績降雨の引き伸ばし法」が実務で使われているところであるが、この方法では、引き伸ばし率を何倍まで許容するかが、学問的にも技術的にも重大な問題となる。この倍率に制限を加えないと、出来上がった降雨パターンのピーク降雨強度(mm/hr)は時には日本の観測記録以上にもなることが生じる可能性があり、実際に起こり得る降雨パターンを忠実に表しているとは言えないことに成りかねない。そこで、建設省は日本各地の河川における、実績降雨の引き伸ばし法を適用しての解析経験の積み重ねより、最近では、今回の吉野川流量改定と同様に、引き伸ばし率の上限を 2 とした場合が、広く採用されているようである。」(端野道夫:吉野川の治水計画と第十堰の関連性について,吉野川第十堰建設事業審議委員会「第十堰に関する技術資料の専門学者による評価報告書」,平成9年5月)
 想定した豪雨が2時間続くと2時間前後で集水する地点で異常に大きい洪水量が発生する。その結果、辰巳ダム地点で1,260 m3/secと計算された。(隣接の浅野川の天神橋地点ではほとんど同じ集水面積で計画洪水量710 m3/secである。) 辰巳ダム地点での洪水量の記録はないが、古老の話、横穴の高さや既存の橋の高さなどを総合的に勘案すると実際はせいぜい400〜500 m3/secの出水だろう。最大で、700 m3/secくらいを見込んでおけば十分であろう。1,260 m3/secはいかにも大きすぎる。
 仮に県の計算が妥当なものとすれば、辰巳ダム地点の辰巳用水東岩取水口は、安政2年(1855年)に築造されて143年経過するので1回くらいは県が想定するような洪水があってもおかしくはないだろう。この地点は、川の流れは90度に2回曲折し、クランク状になっている。1,260 m3/secの水量を幅30m程度の峡谷を流下させる場合、水流が曲折する損失水頭を考えると東岩取水口地点で10mくらいの水深になるだろう。となると、辰巳用水の水トンネルの崩壊や横穴からの土砂の流入で水トンネルの閉塞などのトラブルなどの記録や言い伝えがあってもおかしくはない。寛永大地震(1799)で壊れたという記録はあるが、洪水による崩壊の記録はない。このことも、この洪水量が大きすぎるのではないかと疑う理由である。

「誤謬2 = 広過ぎる降雨空間」を検討する
( 同時に70mm/hrを超える大きな雨は降らない!)

 20kmも離れた地点のデータを流用したことにより降雨の地域分布が著しく地域特性から逸脱してしまった。

誤謬 その結果 計算手法の思想から逸脱
データの流用
(金沢気象台のデータを犀川ダム地点に)
90,74mmの雨が同時に
広範囲に
空間的要素が地域特性から逸脱

 『計画説明書』では、不足した降雨資料を補填という形で他の地点の降雨資料を流用している。不足している降雨資料を補填するために他の地点のデータが流用されている。これは、結果的に、重大なミスを引き起こしている。
 『計画説明書』P.34によれば、鶴来、犀川ダムの雨量データがないので、他地点の雨量データを流用している。
「@昭和15年〜昭和29年
(A)パターンのティーセン分割を採用する。降雨資料の補填は次による。
 金沢時間雨量波形 ……… 実測
 鶴来時間雨量波形 = 金沢時間雨量波形×(内尾2日雨量/金沢2日雨量)
 犀川ダム時間雨量波形 = 金沢時間雨量波形 」
 鶴来波形は近くの内尾の雨量を用いて地域特性を反映させているので適切ではないとはいえないが、犀川ダム波形は20kmも離れた地点の金沢波形をそのまま同じデータを流用していることは、空間的なばらつきを無視することになる。
 その結果、どういう結果がもたらされたかというと、昭和27年6月30日の実績引き伸ばしによる計画降雨波形は、金沢地点の引き伸ばし降雨90mm,74mmを金沢地点から約20km離れた犀川ダム地点でも同じ雨があったことにすることになった。当地域の実際の降雨では、70mm以上の降雨が記録された場合、他観測地点では10mm台とほとんど降っていないことが通例であり、県の『計画説明書』のデータからもわかる。

年月日 時刻 金沢 犀川ダム 鶴来
昭和36年9月16日 17時〜18時 7.5 18.0 5.3
18時〜19時 15.2 78.0 10.8
19時〜20時 10.2 16.0 7.3
昭和42年8月15日 9時〜10時 23.2 13.0 18.4
10時〜11時 4.9 48.0 66.8
11時〜12時 3.8 17.0 25.4

                              出典:県の『計画説明書』による

 犀川ダム(倉谷データ)の78.0oの降雨があった同時間帯に、金沢観測所では、15.2mmしか降っていない。昭和42年のデータも同様である。金沢地方気象台の話でも同時に豪雨はないという。つまり、当地の降雨は空間的なばらつきがあり、70mm以上の雨が広範囲に降るというデータがないにも関わらず、広範囲に降ることにした。つまり、空間的な降雨のばらつきが地域特性と著しく離れることになった。
 空間的な誤謬があると、実際とどう、矛盾してくるか、広範な集水面積を持つ地点で異常に大きい水量が発生する。犀川大橋地点の計画洪水量は1,920 m3/secである。これに対して、犀川大橋地点の実績は、
     犀川大橋地点、昭和36年9月16日 ピーク流量 700±50m3/sec
              (第二室戸台風、1時間最大雨量 51.2o)
である。

 洪水量1,920 m3/sec はデータの裏付けがなく、誤った手法で過大な数値を算出したものである。データの流用は、100年確率の降雨があるときに、さらに100年確率の降雨をもってくるようなもので、1万年確率の降雨を想定しているといってもあながち間違いではない(1/100 × 1/100 = 1/10,000)。有史以来、発生したことがない降雨であると主張する理由である。

重要なデータ収集 <降雨データ>と<出水量>
 長期的な予測をするためには、長期間の計測データが必要である。洪水量は降雨データから求める手法が取られるので、確率年の大きな洪水を予測する場合、ますます降雨データの重要性が増す。観測施設も充実し、データの蓄積も毎年、増加している。これらのデータの収集整理、解析に投資すべきである。必要ならば、観測地点の増加も図る。犀川流域および浅野川の流域を含めると200q2を超える地域であるので、ばらつきの要素をいかに精度をあげてとらえるかが重要となる。降雨計測ポイントを増やして、降雨強度の精度をあげて観測し、これを計画に反映すべきである。金沢地方気象台では、金沢(西念)、医王山の2ヶ所、石川県土木部は、菊水、成ケ峰、芝原雨量局において、降雨の観測を続けているのであるから、これらの降雨記録から、精度をあげて降雨強度を推定し適正な計画を作成するべきである。また、懸案の犀川大橋地点の洪水量の計測がなされていないことは問題である。計画する技術者が現場を知らないので有史以来発生したことがないのではと疑われる洪水量を算出しても無頓着でいるのである。犀川大橋地点、辰巳ダム地点など主要なところで洪水データの計測を実施してデータの蓄積を図るべきである。
つぎに、洪水量(基本高水量)以外の疑問点について考えてみよう。

ダムが必ずしも洪水対策に有効ではない
 ダムは豪雨のあるところへ移動できない。当然、ダムの上流に降らないと貯めようがない。貯めなければ効果がない。ダムの上流で豪雨がある場合は有効であるが、下流、あるいは、支川で豪雨があった場合役に立たない。犀川ダム
の流域は、57.8km2である。辰巳ダムの流域は、犀川ダムの流域を含み78.9 km2である。ほとんど、重複している。犀川ダムの上流に降雨がないということは、辰巳ダムの上流にも降雨がないということである。このケースの場合、両ダムとも機能しないことになる。階段状にダムをならべても治水対策上、有効ではない。
同様の観点から、浅野川放水路+内川ダムの組み合わせによる、浅野川の洪水対策は、論理的に誤りがある。浅野川放水路+内川ダムの組み合わせによる、浅野川の洪水対策は、「犀川に余裕を造り、その余裕の分を負担させるもの」である。この対策として、《河川の拡幅》という対策を取ったのであれば、問題はない。ところが、《ダムの築造》という対策を取ったため、本質的な誤りが、生じている。
 浅野川流域に豪雨が降ったときに、内川の上流にも想定した豪雨がないと、この論理のつじつまがあわない。ダムの洪水調節機能は、ダムに想定する水が流入してはじめて機能を発揮する。当たり前の話であるが、ダムの上流に降雨がなければ、機能しない。浅野川流域の豪雨と内川の上流の豪雨との相関関係を明らかにして、根拠づけが、用意されているでなければ、この方策は、有効でない。
 具体的に述べると、内川ダム上流に降雨があっても設定された流出量を超えるまでは、内川ダムの洪水調節機能は働かない。一方、浅野川に想定された流出量が発生すれば、浅野川放水路を通じて、犀川へ250m3/sの水量が流入する。この時点で、内川ダムが全く働いておらず、ダムが無いのと同じである。
 また、安全性にも問題がある。単独の場合は、片方の影響が他方へ波及せず、片方が単独に危険になるだけである。両方とも安全にするつもりが、論理的には、片方の影響で、両方とも危険になるパターンが発生する。仮に、浅野川、犀川流域にともに、想定した水量よりも、上回った出水があったとする。浅野川放水路を遮断して単独で考えると、浅野川は当然氾濫するが、犀川は浅野川放水路からの250m3/sの余裕の範囲内で安全である。ところが、浅野川放水路をつなぐと、両方とも氾濫することになる。
 このような治水対策は、全国的にも採用された例がほとんどない。論理的に矛盾があるので、当然であると考える。ただ、流域の大きさや河川の流下能力が著しく、大きい河川に放流する場合は、有効であると考えられるが。

大規模な山地の崩壊が起こるとダムは災害を大きくする
 現在、採用されている洪水対策の考え方では、基本高水量、水量のみに基づいている。出水量を予測し、これを流下あるいは一時貯留するものである。想定する豪雨を拡大していくと、水量だけの問題ではなくなる。例えば、有史以来の豪雨が降ったとしたら、これにともない、方々で崖崩れが起こり、土石流が発生し、一気に大量の土砂が流入する恐れがある。この場合、ダムは無い方が治水上、安全だろう。この種の災害で、イタリアのバイオントダムが有名である。
 貯水池周辺の地盤が大規模な地滑りを起こして今世紀最大の被害を出したダムである。それは、1963年10月9日、イタリアのベーネト地方のにあるバイオントダムである。峡谷の左岸側の2億4000万立方メートルもの地盤が地滑りをおこし、この巨大な量の岩石が貯水池を1.8キロメートルにわたって埋め尽くした。このとき、巨岩が急激なスピードで湖面に落下し、その反動で貯水池の水がダムよりも100mも高く吹き上げられたため、ダムから大量の水があふれでて、下流にものすごい勢いで流出したのである。この事故で、2,600人の人命が奪われた。
 辰巳ダム地点での出水量が、毎秒1,200トンを超えるような事態では、急峻な地形などを考慮に入れると、大規模な土砂崩れの発生がないとは言えない。このケースでは、ダムを造った方が、治水上安全であるとはいえない。 

犀川ダムを造ったが水害がなくならないのはなぜか?
 洪水調節用ととして築造された犀川ダム、内川ダムは、築造されて、それぞれ、32年、24年が経過している。しかし、あいかわらず、下流の安原や高畠地区の洪水被害を解決できないのはなぜか。
 『犀川総合開発事業辰巳ダム建設環境影響評価書』(昭和62年、石川県土木部)によると、1時間平均降雨量70mmに対する洪水調節機能をもった「犀川ダム」建設以後(昭和41年)もあいかわらず、大きな出水に見舞われ、洪水被害がでている。県は、これらの事実から、さらに犀川の安全度を高めるため、1時間平均降雨量92mmの豪雨を想定し、辰巳ダムの必要性を主張している。
 これは明らかに見当違いである。下流で浸水被害が起こるのは、だらだらとした雨が長時間続き、河川の増水が長時間続いた場合に内水(住宅地側に降った雨による流出水)を河川へ排水できないという原因で発生することがほとんどである。犀川本線の外水(河川両岸の堤防の間を流れる水)によるものではない。辰巳ダムによる洪水調節は、1,2時間の短時間に豪雨が降った場合の最大流出量を低減して、堤防から外水を住宅地側へ氾濫させないようにするための対策である。これらの詳細については、添付資料(3.今回の豪雨(平成8年6月25日)における高畠三丁目付近の浸水被害について、および4.高畠・安原地区の洪水被害を防ぐには辰巳ダムの建設は有効か?−辰巳ダムの洪水調節機能とは−)を参照して欲しい。

辰巳ダムは効率が悪い
 洪水対策としても、犀川、内川ダムと比較し、非効率的である。つぎの表は、洪水のピークカット量に対する洪水調節容量の比率を表している。辰巳ダムの1.70は、1m3/sを削減するのに、1.70万トンの洪水調節容量が必要なことを表している。つまり、この数値が大きいほど、不効率であることを表す。辰巳ダムは、犀川、内川ダムに比較し、約半分の数値にしかならず、非常に効率の悪いダムであることがわかる。この原因は、辰巳ダムの流域の大半が、犀川ダムの流域に重複していることなどの欠陥によると見られる。
                                     ピークカット量に対する洪水調節容量の割合

犀川ダム 内川ダム 辰巳ダム
洪水調節容量(万トン) @ 430 350 560
ピークカット量(m3/s) A 470 480 330
ピークカット量 に対する洪水調節容量の割合 @/A 0.91 0.73 1.70

 1m3/sのピークカットをするのに、辰巳ダムはいずれも、2倍近い数値となり、非効率的である。

技術的回答になっていない辰巳ダム計画
技術とは最もシンプルな方法で目的を達成するための知恵である。仮に辰巳ダムを造るとしても筆者であれば、このような欠陥だらけの計画はしない。「河川維持用水を確保し、洪水調節も期待したい」という要請を受けたなら、技術者として、「いかに有効に目的を達成するか」という思想に照らして、検討すると、つぎのようになる。
 @維持用水240万トン分を犀川ダムに負担させる。
 A同時に発電機能も犀川ダムへ移行する。
 B犀川ダムの洪水調節機能を減らすかあるいは、洪水調節機能をやめてその分を辰巳ダムに負担させる。辰巳ダムは洪水調節専用とする。
 こうすることにより、
 @流域の大きい下流の方が、洪水調節機能をはたしやすく、集約する方が治水の管理上も有利である。
 A維持用水のための貯水水質は、犀川ダムは上水道用水として利用できる水質であるので、水質汚濁の心配はほとんどない。
 B発電は、落差が大きいので当然、著しく、発電量は多くなる。
全く比較にならないくらい、県の計画よりも明らかに有利である。


2.「地域活性化の起爆剤」という辰巳ダム
(迷惑施設「ダム」を受け入れる地元の論理)

 辰巳ダム予定地の集落選出の市会議員が「地域活性化の起爆剤である」と主張していた。また、知事は「行政は地元の要望があるから造らなければならない」と、朝日新聞記者との対談のなかで述べている。

記者「辰巳用水にかかわる歴史的遺構の保存などから建設に反対する人たちがいる一方、地元の人たちはダムの必要性より、地域の道路や橋な
   ど周辺の整備を望んでいるとも聞きますが。」
知事「すでに用地の95%を取得しているんですよ。地元のみなさんに、ぜひやってくれ、との思いがあるからではないですか。金沢市も含めて、建設のための期成同盟までつくってお    られるのです。やはり、洪水、治水対策の面でも必要と考えられるからでしょう。犀川の断面を拡張することはできんわけですから。」

 ここにその理由の一端が垣間見える。この辰巳ダムは、「洪水調節、維持用水の確保、発電」の目的を持っているが、いずれも、地元の人が利益を得るわけではない。このダムと言う迷惑施設を「ぜひやってくれ」という理由はどこにあるのだろうか。
 ここで手元に資料(京大大学院生、西村氏資料)のある岡山県の「苫田ダム」の例で考えてみよう。
 総事業費2,700億円で内訳は、
 ダム事業費1,325億円(49%)
 水源地域対策費(水源地域対策特別措置法による事業費)433億円(16%)
 利水事業費942億円(35%)
となっている。この水源地域対策費(個人補償は含まれていない)は、ダムが建設される地域に優先的に実施される公共事業費である。つまり、ダムと言う迷惑施設を受け入れることによって、道路や下水道が整備され、新築の学校や役場が整備されることになる。

 苫田ダムをテーマに取り上げて、経済学的観点からダム事業を研究している西村氏(京大大学院生)は、1973年(昭和48年)に「ダムの建設を促進するために」成立した水源地域対策特別措置法(注)による制度が、有用性がない不要なダムも促進していることを指摘している。
(注)水源地域対策特別法は、ダムの建設によりその基礎的条件が著しい変化する地域について、生活環境、産業基盤等を整備する等特別の処置を講ずることにより関係住民の生   活の安定と福祉の向上を図り、もってダムの建設を促進し、水資源の開発と国土の保全に寄与することを目的とする。
   ダムが迷惑施設にすぎないにもかかわらず、事業が進むにつれて「ダムが地域の活性化に必要なものである。→ダムが地域活性化の切り札である。→地域を活性化するために   はダムしかない。」となっていくのは、この制度によるものであることを指摘している。

 ダム建設を促進することによって
・ ダム建設工事にともなう公共土木事業の発生(雇用機会の増加→地域住民の収入増加)
・ 水源地域対策費の公共事業(道路、上下水道、集会場などの公共施設)の発生
・ 道路など公共施設の整備による生活環境改善
されることになる。これが、地域を活性化するためにはダムしかないとなる、ダム建設の誘因である。ダムそのものの必要性に同意しているわけではなく、優先的に公共施設を整備するなどの処置に同意しているのである。

3.辰巳ダム建設によって発生する問題点

 辰巳ダムを建設することによる問題点を整理すると
・文化遺産が破壊されること、
・自然環境が破壊されること
・現在の住民の人心の荒廃を招きかねないこと
・負担を負うのは子孫であること
があげられる。つぎに各々について検討してみよう。

文化遺産が破壊されること − 生き続けている用水の未来を案ずる
 元金沢大学松井教授は、「仏像の頭をちぎって文化財にするようなものである」と述べ、辰巳ダムによる東岩取水口の破壊は歴史的土木文化遺産の価値を損なうものであることを説明している。
 東岩取水口は新しいもので板屋兵四郎が造ったものではないので価値が少ないというダムの推進側の主張がある。辰巳用水の取水口は、雉の取水口の築造後、2回延伸されている。
 雉の取水口 1632年(寛永九年)
 古河口取水口(めおと滝対岸の取水口)1799あるいは1840年ころか
 東岩取水口 1855年(安政二年)
東岩取水口の明確な記録はないが、金沢大学宮江教授によると東岩取水口は椎名道三によるものではないかとのことである。この時期、13代藩主斉泰は、霞が池の拡張にあわせて水量を確保するために東岩取水口への付け替えを命じたといわれている。兼六園の拡張とともに整備されたものである。後で造られた兼六園が価値が低いと評価されないのと同様に、後で造られた東岩取水口も評価するべきものである。

 ダムが建設されることにより、東岩取水口が水没し、下流の約100mの水トンネルがダム堤体のため破壊される。古河口取水口地点から、東岩取水口までの東岩ずい道は、藩政期の末期の安政二年(1855)に築造されたものであるで、現在まで143年が経過している。名勝兼六園は、眺望がきく高台にありながら水泉の美が楽しめることが命名の所以でもあり、辰巳用水無くして兼六園はない。御城と合わせて三位一体の歴史的土木文化遺産である。
 実用に供しているので、辰巳用水は歴史的土木文化遺産であり、遺跡ではない。辰巳用水は、366年まえに築造されていらい、途絶えることなく、水を送りつづけている。このような用水は、数少ない。玉川用水は、下水処理水を放流することによって都市内のアメニティ用水として最近、復活したが、一時、放棄された。
 用水路では取水口の役割は重要である。取水口に設置されている水門の管理が最も重要な仕事である。代々の世襲の水門番(辰島家)が現在もその管理にあたっていることからもその重要性がわかる。降雨により河川の水位が上がると用水路への流入を押さえるために水門の開閉の調整が必要となる。大量の水が流入すると用水路の壁面や天井が崩壊するからである。
 築造以来、現在も機能しているということは、取水口、水トンネル、開水路、分水ゲート、分水路などの用水路システムなどの施設が維持されていることは当然であるが、これを維持管理するシステム(人、資材、金、ノウハウ)が同時に機能しているということである。この両方の機能を破壊しないように留意することが必要であろう。施設の一部を破壊することによって、維持管理システムの一部を断ち切ることになり、維持管理システムが壊れ、結局、全体が放棄されてしまう恐れもある。継続されるような仕掛け(水門番の世襲制などはこの代表的なものであり、ほとんど無償奉仕に近い形態である)を作っておいたものを壊すのはよほど注意してかからねばならない。何世紀も続けるということは、このような仕掛けがあったからである。仮に、下流のトンネル部分の管理はダム管理者が管理するとすれば、歴史的つながりもとだえ、放棄される危険性は高まる。今ある姿をそのまま残せるものなら、残したほうがよい。

自然環境が破壊されること
 ダムによって湛水する地域は犀川渓谷といわれ、自然の豊かなところである。駒帰までの2kmほどの区間の環境が湛水により一変するなど、辰巳ダム建設による自然環境への影響は、さまざま考えられる。建設工事や建設後の湛水に伴う直接的な破壊、生態系への影響は多大である。特に、辰巳ダムの場合、水質汚濁の懸念が最も大きな問題である。
 特に問題点としてあげる理由はつぎのとおりである。
・建設地点の夏場の流量は著しく少なく、辰巳用水東岩取水口水で全量、取水され、その下流の水流が途切れるのが普通である(夏場にダム湖の滞留する時間が長くなる)。犀川ダムから放流される水は、犀川ダム→寺津→新辰巳発電所を通って、辰巳ダム下流へ放流されるので、辰巳ダムに入らない。辰巳ダムには、犀川ダムと辰巳ダムとの間の21km2の流域からの自流水と集落からの生活排水、農業排水が流入するだけである。
・この地点の標高が海抜100m台と低く、ダム湖の水温が上がりやすい条件にある。(水温が上がると藻類の増殖が活発になる。)
・ダム湖の集水域には8集落、399人(昭和60年)の住民が居住し、かなりの田畑があることからダム湖へ栄養物が大量に流入する恐れがある。(栄養塩が多いと藻類の増殖が活発になる。)
 日本の河川は一般的に滞留させると藻類の増殖が活発に起こる。その上に、上記のような条件が重なると、魚類に毒性を持つプランクトンの発生、アオコの発生、水道水にカビ臭を発生させるプランクトンが発生などの障害が発生する。
 この懸念に対して、県が行った環境アセスメントの最終的な結論として『富栄養化については、昭和62年に環境アセスメントを実施しており、その中で、利水に支障をきたすような極端な富栄養化は発生しないので、問題を生ずることはない。』と言っている。利水に支障をきたすような極端なというのはどういう意味か、極端でない富栄養化現象とはどのようなものでその結果どうなるのか、その説明はない。
 また、県の検討した条件というのは、10年間の平均的な条件でのものである。この維持用水が最も必要となる条件は、10年に一度という渇水年の夏場にこそ、その役割を期待されているものである。このときに、流す水の水質はどうなのか、知りたいのである。10年間の平均値で「極端な富営養化現象の発生はない」と汚れることが予想されるが、10年に1回の渇水年のときの水質はどうなるのか。

 発生はないとしながらも、県は水質汚濁を防止するための方法として
・集落の下水道整備を行う
・ダム湖の植生を取り除く
・ダム湖の水質が悪化しないように曝気を行う
などとしている。

・集落の下水道整備を行う
 家庭から発生する生活廃水を処理してダム地点の下流に排水すればその分はなくなる。しかし、生活周辺の、ノンポイントの汚濁負荷は排水路を通じてダム湖へ流れ込む。また、田畑からの排水も同様である。
・ダム湖の植生を取り除く
 建設時の除去は容易にできるが、その後に流入してくるものは困難である。
・ダム湖の水質が悪化しないように曝気を行う
 曝気処理によっても富栄養化の要因は除去されない。水道技術者の小島貞男博士が発明した"間欠式揚水筒"のことであろうか。これは、蓋をして光を遮ると藻類の増殖がおこらないが、これを間欠式揚水筒によって物理的に湖水の循環をおこすことで、同じ効果を期待でき、藻類の増殖を抑えるものである。小島博士によると日本のダム湖ではほとんど、これで解決できるという。これによって、水道水のカビ臭を発生させるプランクトンの消滅させることができたという。ここで、2つの点に留意しないといけない。一つは水道水対策であるということ、一つは藻類の発生を抑制するということである。

 前者は、1m3あたり100円程度で売っている水であるということである。つまり、少しくらい、お金をかけても経済性は損なわれないのである。一方、辰巳用水は飲む水ではない。川に流したり、お堀に貯めたりする水である。安価な維持費が求められる。

夏場の水深が浅くなった条件の悪いときに必要になるが、この場合でも有効であると仮定して、数本の間欠式揚水筒で藻類の増殖を抑制したとしよう。100kW近い電力を消費することになろう。ではその電力をダムで発電する電力でまかなうことができるのか。夏場の上流からの水の枯れたときに間欠式揚水筒を動かさなければならない。そのときにダムで発電する電力を利用できない。だから、他の発電所から電力が必要となる。その結果、辰巳ダムの目的の一つは発電であるが、
− 夏以外は電力は余っているが余っている時期に辰巳ダムは発電する
− 夏の電力の足りないときに最も電力を消費する
ということになる。もしこの推論が正しいとすると、ダムで発電するというのは、羊頭狗肉どころか、まるで詐欺みないなものである。言いがかりをつけるとすれば、これは目的を達成するために最もシンプルで安価な方法は何かを見つける《技術》ではなく、目的を達成しないために最も複雑で高価な方法は何かを見つける《詐術》である。
 つぎに、藻類の発生を抑制するということである。抑制するだけで、要因を消去するわけではない。太陽のもとにおけば、たちまちに藻類の増殖が始まる水である。曲水やお堀では藻類の増殖が始まる。特に、水を停滞させるお堀ではアオコの発生は火を見るよりも明らかである。費用をかけてダム湖の見栄えをよくしても、その水の使用先で問題を起こしては何をやっているのかわからない。ダム湖の水は目的とする先で利用できて始めて役に立つわけであり、その使用先で問題を起こすのであれば問題を解決したことにならない。(ちなみに、水道の場合、この水が直接、配管で導水されてろ過池に送られるので日光にあたらず藻類は発生しない。)つまり、辰巳ダムで間欠式揚水筒は問題解決にならないということである。

現在の住民の人心の荒廃を招きかねないこと
 金沢の市街地まで10kmのところにあり、この地域のほとんどの世帯主が市内で働くサラリーマンである。わずかに昔からの田畑があり、兼業農家である。特に買収の対象となる田畑は谷の底近くの耕作条件のわるいところあるいは原野である。いわゆるこの先祖伝来の土地をを放棄したからといって、住民の生活基盤にはほとんど影響のないものである。
 ところが、実際はこの二束三文の土地が高値で売れることになる。誰が得する、損すると欲得が人間を変えてしまう例がある。徳山ダムの補償で一躍、成り金村になった藤橋村の村長の話ぶりをきいていると、これが農村の村長かと疑う。まるで、都会の怪しい不動産屋や開発業者のような口ぶりである。大阪の暴力団系統の不動産屋に脅かされて話題になっているが、これも、不労所得は人間を貧相にし、結局は、不労所得は人々を精神的に堕落させるという良い?見本だろう。
 なお、筆者の亡父は、戦後、国策であった電源開発のため、御母衣ダムなどダム建設の用地買収の仕事に従事していた。時々、ものが少しわかり始めた筆者にダム建設現場の様子などを話してくれた。「素朴な山村の農民が突然、手にした大金で芸者遊びに狂い、すべての財産を無くするものがいる」とあきれていたことを思い出す。

負担を負うのは子孫であること
 二束三文だった荒れ地がお金にばける上に、地域には、水源地域特別対策措置法によって優先的に公共投資が行われる。ダム建設によって損失を被る地域に対して一種の補償を行おうとする制度であるが、近頃では、受け入れと引き換えに、必要以上の投資がなされている。これらを含めて辰巳ダムでは200億円の費用がかかるが、誰がその費用を払うのかというと、大半が建設国債の発行でまかなわれ、結局は、子孫が税金という形で負担することになる。高齢化社会で福祉、年金の負担も重なる。土木事業は子孫に恩恵を受けるどころか、負担だけを贈ることになる。


5章 21世紀の土木事業はどう考えるか
 21世紀のキーワードは、国際化、高齢化、情報化であるといわれる。国際化は、人、モノの交流を自由にし、高齢化社会は、ストックつまり資産が豊富であること意味し、情報化時代は、すべての人々が安価で素早く情報を共有できることである。充実した社会インフラがあり、人々が豊かにくらすことができる社会になる条件がそろった。経済については、「高度成長の時代のようにモノあまり時代、成長志向はおわり、ゼロサム時代になる」(堺屋太一)という。
 21世紀の到来をひかえ、土木事業はどうあるべきか。まず、建設時代に蓄積したストックを量と質からの点検のうえ、今後は必要でないものあるいは非効率な施設の建設は中止するべきだろう。建設時代から維持管理時代となり、いままで蓄積した土木施設の活用を図ることである。ものづくりの建設時代から維持管理の時代に移行するということは、主たる対策がハードからソフトへ重点が移行することも意味する。後進国から先進国に追いつくため国をあげての経済大国づくりには官主導体制が有効であったことは否定できないが、戦後半世紀の歴史の中で官の肥大化、非効率化が限界までに達している。官から民へ、民でできることは民にまかせるしくみとすることは急務である。また、辰巳ダム計画を通じて提起された問題は、自然環境との調和、文化遺産との共存、住民への情報公開である。21世紀の土木事業を考える上で、抜きにできない視点である。

1.建設時代から維持管理時代へ
 現在の土木建設行政制度の基本は戦前にできている。明治期に外国人の御雇い技術者を高給で雇用し、西欧の技術やしくみをとりいれ、制度をつくった。大正期、昭和初期にあたる1900年代の始めころまでには制度の基本的な骨組みが固まったといってよい。戦後、建設省が発足し、建設のためのさまざまな事業法などが整備された。特に各公共部門ごとに緊急整備措置法により五ヶ年計画が立てられ、高度経済成長にともない財政規模が拡大することと平行して公共事業が行われてきた。
 現在では、公的社会資本ストック額がすでに欧米諸国と見劣りしないようなところまできている。『建設白書平成6年度版』p.19によると「わが国の純ベースの公的社会資本ストック額(注1)は、平成4年(1992)において約373兆円(注2)となった。これを対GNP比でみると、昭和51年(1976)に約70%であったものが、平成4年(1992)には約80%となり、着実に増加してきている。さらに、2000年には全国平均でみれば、欧米諸国に比べてそれほど見劣りしない整備水準を目指し、社会資本整備を行っているところである。」とある。
(注1) 国民経済計算年報による公的部門の純固定資産
(注2) 平成7年末には445兆円と3年で2割増加

 最も遅れていたといわれる下水道整備にしても、平成9年度末(1998年3月)で人口普及率58%に達する。すでにイタリアの水準に追いついており、他の欧米の先進国に追いつくのは目前である。現在のペースで整備が進むと(年2%の伸び)10年後には約80%に達する。浄化槽や集落排水事業で整備されるところを含めると、ほぼ100%にとなり、数字の上では10年後に下水道整備が完了してしまう。

2.ハード対策からソフト対策へ
 社会資本整備が進むと、当然ながら、ハード(ダムなどの構造物を造る対策)からソフト(構造物を造らない対策)の対策に重点がうつる。最も簡明な例をあげて説明すると、「国・地方のハードの治水対策は何もしないで、現在の毎年の予算を実際に発生した被害補償に充てる」である。この方が明らかに安価となる。
 現在、治水のために国費だけで年間約1.3兆円が使われている。地方費を入れるとその倍の約3兆円弱が治水のために費やされている。これに対して被害の方はどうであろうか。『水害統計』(建設省河川局)によると1981〜1990の10年間では、2,222億円〜13883億円、年平均水害被害額は7,460億円に過ぎない。ちなみに死者行方不明者は、10年間で24〜503、年平均129人である(年間の交通事故の死亡者数が1万人を超えていることと比較して見ると著しく小さい。これ以上、物理的な対策で減らそうとすることは無理だろう。早期に予知して避難するなどの対策で減らす以外にない。)。治水のために費やされている工事をすべてやめて、そのかわりに水害被害の補填する方法をとれば、毎年2兆円以上、国・地方の財政負担が軽減され、国民の税負担は軽くなる。
 もう一つ例をあげよう。『建設白書平成9年度版』p.54による治水に関する項を見ると、
「……もし今昭和22年に首都圏を襲ったカスリン台風と同規模の台風によって利根川が決壊すれば、首都圏で500km2以上が浸水し、約210万人が被災、被害は一般資産等だけで約15兆円にのぼると推定されている。こうした壊滅的水害を防ぐために利根川、淀川等の主要河川でスーパー堤防の整備を進めている。……」とある。不安をかきたてているが、客観的で合理的な説明とはいえない。
 利根川の氾濫による15兆円の被害を洪水の確率年200年で割ると毎年750億円にすぎない。莫大な費用をかけて治水をおこなうより、これを水害補償として積み立てる案の方が安価で簡明である。
 日本の場合、沖積デルタに大都市が位置し、縦横に河川が横切っている。それぞれの河川の堤防を著しく高くするより、低地は、水防林などの方策により、水の勢いをそぎ、100年に1度の浸水は許容するようにするという考えもなり立つ。さらに洪水量のピークが数時間、半日か1日で水が引いてしまうことが多い。
 ソフトによる対策、つまり、浸水被害予想区域を公表し、このようなところは、建築基準などの規制、土地利用規制を行い、長期的に浸水に強いまちづくりを行うことにするという考え方も成り立つ。いずれが合理的かは、地域の条件によって著しく異なると考えられるが、今までのように全国一律に、高堤防を築き、ダムを造るやり方をとることの方が不合理であることは明らかである。
 渇水対策を理由にダム建設が計画されるが、これもソフトの対策で解決できることは明らかである。日本の河川はほとんど農地を開発すると同時に用水として開発されている。渇水といってもほとんどの地域で農業用水に余裕がある。渇水のときには優先的にその権利をもらい、農業生産額の減収分を負担すればよいだけのことである。渇水を理由に水を開発しなければならない理由はない。
犀川の河川維持用水
 辰巳ダムの場合、河川維持用水を確保することが目的としてあげられているが、用水間で調整すれば解決できる。河川維持用水にしても水道用水にしても灌漑用水にしても同じ水である。余裕のあるところから融通すればよいわけである。これが今までできなかったのは、単に縦割り行政の弊害からにすぎない。
 金沢市の場合、上水は大幅に余っている。1日の水道使用量は、約17万トンとここ数年横ばいが続き、日最大量も22万トンにすぎない。現在の傾向から予測すると長期的にみてほとんど増加しない。これに対して、現在の供給能力は、約30万トンある。さらに、平成20年度には、供給能力が40万トンに達する予定であり、1日の使用量は、供給能力の半分以下になると見られる。
その内訳は、
 犀川ダムから、日量10.5万トン
 内川ダムから、日量10万トン
 県営水道から、日量約11万トン(現在)、平成20年度には、19.5万トン
である。
 県営水道からの受水は義務的であるので、結果的に現在は、犀川ダム、内川ダムからの水は実質半分しか利用されていない。その結果、毎日、約10万トンの水がそのまま、犀川へ流出している。ダムで6万トンの河川維持用水を開発しなくても、すでに供給されているわけである。この状態は将来とも変わりそうもない。
犀川のハードとソフトの統合治水対策
 どのような計画を作ってもそれを乗り越える洪水はやってくる。河川のそばは、土地利用規制、水害防備林、浸水被害予想区域図の公表、建築規制などのソフト対策整備を行う。50、100年かけて、建物の寿命が来るつど、改良したり、移転したりする。そうすることによって、特別の費用を掛けなくても安全なまちづくりができる。さらに、金沢の川と道のネックである犀川大橋地点の改良についても長期計画をたてる。
犀川大橋地点は、川(犀川)のネックでもあり、道(都市軸ゾーン)のネックでもある。金沢市発展のため、百年の大計に立ち、解消する必要がある。河川を拡幅すると同時に道路も拡幅し、寺町台地への取り付け部分の改良を図ることが望まれる。
片町から金沢港につながる都心軸構想では、犀川大橋地点が始点である。21世紀に向けて、金沢市が発展するためには、この始点を南に延伸して、寺町台地を結びぶことが求められる。このことにより、金沢港から片町に続く都市軸ゾーンの延伸が可能となる。市の全体構想を考えると、いずれ、犀川大橋地点のネックを解消する必要がある。
また、犀川大橋は、大正13年に造られて以来、約70年を経ている。橋の構造的な診断によると、まだ、使用可能であると見られている。しかし、これもいずれ付け替えが必要となる。さらに、洪水調整能力を有する、犀川、内川両ダムも、堆砂あるいは老朽化による洪水能力の低下が予想され、いずれこれらの問題に対しても対策が必要となる。
 県は、「犀川を拡幅し大橋を付け替える提案に対して、1,000億円程度かかり、経済的に無理である。」と述べている。積算の信頼性はともかく、治水サイドのみで判断できる問題ではないことは確かである。したがって、金沢市は自主的にこれらの課題を解決するために、犀川全体の治水計画を含む犀川大橋地点の改善計画に取り組む必要がある。

3.官から民へ
 建設時代が終わると戦後につくられた建設省の役割は終わる。全体を総合的に判断して行う企画立案の部署以外は官がやる理由はない。官に実務を行う技術職員は不必要で、現在の官の技術者集団は民へ移行するべきである。例えば、鉄道建設公団は、世界に誇る鉄道技術者集団であるという。民間として、効率的にその能力を発揮できるようにした方がよい。
 また、維持管理を官がやるよりも民が行う方が著しく効率的で安価となる。ごみ収集などの業務例では費用が1/3くらいになるという。公共施設の管理などの現業部門は民間へ移行するべきである。

4.自然環境との調和
 辰巳地区に住む人の話によれば、犀川ダムができた後は水の流れが悪くなり、水が汚くなった、魚もいなくなったという。犀川ダムという土木構造物が水の流れをさえぎり、自然を改変したためである。土木構造物が数多く造られ、大規模化するにつれて、改変による自然環境への影響が論じられ、問題が指摘されるようになった。
 土木工事は山や川を削り、大量のコンクリートによって固める。その結果、その土地に生息していた動植物が大きな影響を受ける。動植物の住処のまわりがコンクリートで固められ、水がなくなったりあるいは水で埋もれたりして、その生息基盤が失われることになる。
 今日まで「人間が大事か、ムツゴロウが大事か」という単純化したスローガンでどんどん自然を改変してきたが、開発を推し進めてきた人たちも「自然環境の保護ばかりで開発が無ければ発展がないが、開発ばかりで自然環境に配慮しない開発もいずれ行き詰まる。」と自然環境への配慮をするようになり、改善のきざしがでてきた。人間の都合ばかりで改変を進めることは問題であるという認識は、すでに共通の認識になりつつある。
 土木工事に際して、動植物の生存環境を考慮した"近自然工法あるいは多自然工法"や、必要以上に改変することを避けて工事後再び自然の状態に回復させる"ミティゲーション"などの考え方も採用されるようになった。今後、土木工事と自然環境とをいかに調和させていくかという工夫が不可欠のことになろう。

5.文化遺産との共存
 「自然環境の保護ばかりで開発が無ければ発展がないが、開発ばかりで自然環境に配慮しない開発もいずれ行き詰まる。」という論理は、文化遺産についても同様だろう。「文化遺産の保護ばかりで開発が無ければ発展がないが、開発ばかりで文化遺産に配慮しない開発もいずれ行き詰まる。」
 いまだ、「文化遺産も大事であるが、市民を災害から守ることも大事である」という論理で土木工事が進められている辰巳ダムによって破壊されるのは東岩の取水口を含めて約百mくらいの区間である。それが破壊されるということはどういう意味があるのだろうか。
 用水は取水口が最も重要なポイントの一つである。破壊される延長の長さは短く、物理的には小さいが、機能的には用水の心臓部ともいうことができる。ほとんどの人々は、辰巳用水を見学する場合、まず、東岩取水口を訪れることからもうかがわれる。犀川渓谷の流れが屈曲する水衝部の崖下にある古色蒼然たる、いわくありげな水門を見ると、水を確保するためにわれわれの祖先が要した労苦が忍ばれる。そして、約10km下流の兼六園、曲水を思い浮かべる。
 用水の特徴の一つは、連続しているということである。市内を縦横に走る用水路につながり、水を供給している。縦横に走る用水路は、金沢の町の特徴的な構成要素である。流れを遮るということは、用水のもつ連続性を壊すことになる。金沢というのは、戦災や震災にもあわず、基本的な町並みが破壊されていない、数少ない町である。昔の姿が重層的に残る、特徴的な町であり、その重要な構成要素が用水である。さらに、名勝兼六園へ水を供給しているという点で重要である。辰巳用水の場合は、兼六園、金沢城(残念ながら現在では城へ送られていない)とつながった三位一体的な存在である。さらに、366年間、継続して機能していることが、貴重なものとなっており、これを遮断するのはいかにも惜しい。 
 また、物理的な破壊は、維持管理システムの破壊にもつながる。辰巳用水の場合は、東岩取水口の水門を管理する水門番による維持管理システムが消滅する。その結果、東岩取水口の管理と微妙に連携していた他の用水施設の管理に影響がでるだろう。このような影響から、生きていた文化遺産も一部が破壊されることにより機能が停止すると放棄されることが一般的には多い。 現在では、簡単に用水をポンプで確保できる。尾山神社の水泉は辰巳用水分流の石管によって送られた水によっていたが、県庁の工事で一部、破壊されたことにより、現在では井戸水で供給されている。
 手がかりとして、犀川についても考えてみよう。
山を守り、水をコントロールし、土地を開発してきた。このいとなみの上にわれわれの生活があり、その生活のなかからにじみ出てきた文化がある。犀川の澄んだ川の水を汲んで菊酒を作った。加賀友禅は犀川、浅野川で友禅流しをすることによって育ってきた。住民は、ごりをとり、あゆを釣った。藩政時代は、河原は人の集まる場所でにぎわった。山、川、土地は文化の源である。この背景の上に、金沢の風土になじんた、もっとも適切なくらしであり、文化であるはずである。人々が時間をかけて醸造してきたもっとも大切なものである。この中から、室生犀星の作品も生まれた。川を安易に改造するということは、川となじんだ地域文化の分断につながる。よほどの配慮が必要とおもう。
 つくってきたしくみ、しくみを構成する文化遺産は、その地域文化の裏表の関係にある。文化遺産を破壊することは文化を破壊するあるいは継続を寸断するということになるということが一つの答えである。

6.住民へ情報公開
 民主主義の基本は、住民一人一人が主人公であり、その意見の総意が行政であり、政治であるはずである。その前提として、情報の共有化があり、情報公開が必要である所以であろう。

情報公開などととりたてて議論する以前に、行政が税金を何に使ってその結果どのように役に立っているのか、説明することは当然のことである。国民から半強制的に税金を徴収しているのであるから、その税金の使途、効率性、透明性、有効性などについて明確に説明することは行政の責務であるはずである。にもかかわらず、情報公開が不十分であるとの認識が一般的であるのは、どうしてであろうか。

なぜ、情報、データの公表が行われないかということを考えてみると、納税者が税金の使い道に関心が少なく、追求しないこと、行政に対する信頼性があり"おかみ"に任せておけば大丈夫であると一般に考えられたきたことなどによると考えられる。

しかし、長良川河口堰や諫早湾干拓のように、あいまいな目的をかかげて当初の計画がそのまま、行われるようなことが発生し、行政の信頼性が著しく失墜するような事態が発生している。行政に公共事業の中止をするしくみがなかったとはいえ、情報公開を適切に実施しておれば、これほどの事態にまで進行しなかったのではないかと考えられる。

石川県は、県議の議会質問や市民団体の要求に答えて、県は情報公開、計画書の公開などを実施するようになった。1994年9月、石川県予算委員会の川上県議の質問に答えて土木部長は、「ダム関係の資料については、……住民のご要望等があれば、説明をしていくということはやぶさかではない」と答弁している。また、市民団体の度重なる要求などに答えて、石川県は、「辰巳ダム計画」に関して平成7年2月、『計画説明書』を作成して公表した。計画について疑問やわからないことがあれば、河川開発課の窓口で説明するとも述べている。このこと事態は、大きな前進である。

しかし、この公表については、いくつかの問題点があった。まず、『計画説明書』であるが、計画説明書でも述べているように、基本計画書を公表しては一般住民にわかりにくいので説明を加えて作成したとしている。本来ならば、基本計画書をコピーしてそれに説明を付け加えればよいはずであるが、作成し直している。当初、ズサンにやっていて公表に耐えなかったのではないかと疑われる。また、新規に計算し直して書き換えたのではないかとの疑問もあるが、公表されたものからは、これ以上わからない。

この『計画説明書』の内容以前につぎの2点で大きな問題点を抱えている。一つは、データ(事実)と仮定値(事実ではない)を《ごっちゃ》にして解析していることである。最も基本的なデータ処理に関する重大なミスである。もう一つは、都合の悪いデータを出していないのではないかと疑われる点である。 さらに付け加えるとすると、犀川大橋地点の出水量が一番の問題であるにもかかわらず、洪水量の計測が行われていないこと、したがって、洪水調節がどの程度役に立っているのか現実に判断できないことである。基本計画で、犀川大橋地点がネックであり、この地点の洪水量を調節することが最重要であるにもかかわらず、一番、肝心なことがなされていないということはどういうことであろうか。洪水量は、ダム地点で計測されている。ダムの洪水調節というのは、ダム地点の洪水を調節するためのものではなく、犀川大橋地点の洪水を調節するためのものであるということがわかっていないのではないかと疑われる。
 また、お金に関することはほとんど公表が行われていない。税金をどのように使用したのか、公表するのが当然であるにもかかわらずである。この理由はどうしてなのであろうか。

北陸中日新聞1997.4.29朝刊による次の記事に注目したい。
「石川県情報公開審査会は28日、辰巳ダム建設事務所の新築工事についての入札結果に関連して、予定価格や最低制限価格などを公開すべきとした異議申立てについて、「公開しないことで入札事務の公正、円滑な執行に影響を及ぼす」として、非公開は妥当との答申をしました。
これは、辰巳ダム建設に反対する市民グループの男性が請負契約や工事請負落札価格などを公開請求したのに対し、非公開となったため平成7年12月に異議申立てをしたものとのことです。
審査会では「予定価格などを公開すれば、同種の工事の予定価格などを容易に類推でき、著しい支障がでる」としたのに対し、異議申立てをした男性は「予定価格などを公開することで、入札の自由競争が高まり、より低価格で工事が実現できるはず」としています。」

この新聞記事では
「公開することで入札事務の公正、円滑な執行に影響を及ぼす」
としているが、
「公開しないことで入札事務の公正、円滑な執行に影響を及ぼす」
と、「する」を「しない」に入れ替えても同じことである。つまり、論理がなく、意味不明で、説明になっていない。
また、「予定価格などを公開すれば、同種の工事の予定価格などを容易に類推でき、著しい支障がでる。」としているが、この説明は、「予定価格を公表すると、予定価格がわかるので、困る」という説明でこれも説明になっていないことがわかる。予定価格がわかると"何が"困るか知りたいのである。説明者の石川県情報公開審査会自体が、実際に何を言っているのかわかっていないのだろう。わかって返答しているようには思えない。

米国の例では、公共事業の単価などの入札結果がすべて公表されるということがテレビ放映されていた。また、高知県では、予定価格の公表が試行的に行われるようになっている。埼玉県でも公表することを決めた。

情報公開しないから、ゴネ得や政治家などから横やりが入り、上乗せして土地を買収してしまうことになる。不当な値段をつけるから、また、公表もできなくなる。情報公開すると、ゴネ得や政治家などから横やりが入りようがなくなる。横やりがはいれば、横やりが入り、このような値段になりましたと公表すればよい。土地の値段は第三者の評価で決まり、事業が円滑にすすむ、と思うがどうだろうか。


おわりに
 著者は金沢市内在住の下水道技術者である。主として下水処理場の計画・設計の仕事に携わっている。国内の仕事を20年ほど経験した後、現在は、ODA開発調査プロジェクトの調査団員(下水道技術者)として途上国の下水処理場の設計などをしている。プロジェクトが終わるとまとまった時間が確保できることもあって、土木技術者の立場から、現在の土木事業の問題点等について考えている。
 自宅のそばを流れる辰巳用水の取水口地点に計画された辰巳ダムは土木の大きなプロジェクトであることから、金沢市民の立場からも土木エンジニアの立場からも関心があった。その折に、小さな新聞の囲み記事で紹介されていた、市民有志による「辰巳の文化遺産と自然を守る会」による勉強会に参加するようになった。郷土史家、大学の先生、作家、自然保護運動の人たちなどが集まって活発な議論がなされていた。
 「辰巳の文化遺産と自然を守る会」では、石川県が進めている辰巳ダムの建設がもたらす、辰巳の自然環境や文化財が破壊に強い懸念をもち、辰巳ダム計画の見直しを訴えた。これに対して、石川県は、「金沢市民を洪水から守るために必要なダムであり、一部の破壊はやむ得ない。環境や文化財等への影響について、文化財保護審議会での審議、環境アセスメントの実施、文化財の記録保存などの実施により、十分に配慮して、進めている。」と説明していた。
 県が実施した環境アセスメントに対して、「辰巳の文化遺産と自然を守る会」では、「犀川総合開発事業辰巳ダム建設環境影響評価書(昭和62年石川県土木部)についての問題点と提案」(平成元年5月)を作成し、環境アセスメントの内容が不十分であること、文化財については、破壊される東岩取水口のトンネル部分の調査がほとんどなされていないなどについて指摘した。さらに、辰巳ダム計画そのものについても、治水計画の内容が不明確で高水量の根拠が明かでないこと、ダムの代替案が検討されていないこと、貯水池の水が汚濁し、かび臭の発生などの恐れが大きいことなどの疑問を提示し、不十分であると指摘した。にもかかわらず、石川県は、「ダム計画は建設省の指導をうけ、基準に基づいた計算方法などによっており、全く問題はない。計画の計算根拠、計算方法などについては、公表できない」としていた。しかし、その後、市民団体の度重なる要求に応じて、『計画説明書』を公表することになった。
 辰巳ダムそのものの土木技術的な問題点については、「計画洪水の出水パターンが不自然であること」(金沢大学教授,システム機械工学)、「計画洪水量が大きすぎること、ダムを造らなくてももっと簡単な方法で対策ができること」(『辰巳ダム不要論』,金沢工大教授,流体力学)が指摘されていた。筆者も土木技術者の端くれとして、辰巳ダム問題について検討しようと思いたち、平成7年7月に「辰巳ダム計画説明書」に対する意見を『辰巳ダム計画の土木技術的問題点』という冊子にまとめ、「提案書」をつけて県知事あてに提出した。その内容は、辰巳ダムの3つの目的いずれについてもその目的を達成するために莫大な費用かけてダムを造ることは不適切である、ダム建設の目的が見当たらないということで、「辰巳用水が良い土木事業の典型例である一方、辰巳ダムはこの対極で悪い土木事業の典型例である」とし、「辰巳ダム計画は白紙に戻し、金沢の総合的な水害対策の見直しを提案する」を提案した。
 土木にたずさわり、土木技術者であるにもかかわらず土木事業の批判をしていることに対して、同僚から批判を受けることもある。行政の資金に余裕のあるときならばいざ知らず、借金の累積で首が回らなくなっているにもかかわらず、無駄な公共事業を起こすことは、将来に借金を残すだけの馬鹿げたことに税金を浪費していることになる(土木の分野にかぎらず、他の分野においても馬鹿げたことが行われているであろうことは想像できるが、門外漢のものには言及するための情報を持ちあわせていない)。土木事業の批判を、土木の内部から事情がわかっている者が指摘するからこそ、的確な判断を下すことが出来、改善のための方向を議論することができるのである。門外漢の指摘に対しては、「自然保護、文化財の保護も大事であるけれど、人命を守ることが大事である。だから、ダムは造らないといけない。」ということで議論が終わってしまう。人命を守り、財産を守るために、技術的にどのような合理的な検討がなされているのか、土木技術者でなければわからない。土木技術者が土木技術を批判する所以である。
 日本の土木事業は、山−川−土地を有機的に結びながら、その潜在的な価値を引き出すために開発、社会インフラの整備を行ってきた。技術は、継続して役に立つことが必須である。辰巳用水は、366年間、維持され、役に立ってきた。役に立つから、誰かがその費用を負担し、維持され、住民に富みを送り続けてきたわけである。辰巳用水は土木構造物として優等生で、よい土木構造物の典型例である一方、辰巳ダムは土木構造物として、悪い土木構造物の典型例であるのは、役に立たないからである。
 技術は、目的を達成するために最もシンプルで安価な方法は何かを考えることである。したがって、知恵が一番大事である。ところが、技術が発達し、さまざまな手段が用意され、選択肢が多くなると、知恵を絞らなくとも、安直な方法でも解決することがある。これらの技術を多用することによって豊かになる錯覚しがちである。ところが、技術というものは、長年月、使用され、われわれの生活を下支えするものである。
 特に土木構造物などは世紀を越えた歴史に洗われないと実力がはっきりしない。放棄される技術は山のようにある。長年月経過することで、当地の自然条件、社会条件等に適合した技術だけが生き残る。結局は、長年月、生きてきた古い技術に本質的な回答が用意されていることになる。
 古い時代の技術は、選択肢が少なく、技術の本質を突いた知恵が試される。この知恵の集約したものが古い技術に残されている。これが、「貴重な歴史的土木構造物を将来の子孫のために継承することは、より豊かな社会を実現するためのものである」と考える理由である。
 なお、この小論において、辰巳ダムの代替案についての説明を省いている。これは、ダム建設計画の前提が崩れているためである。県の算出した洪水量が仮に妥当であるとした場合の筆者の代替案については、『犀川総合開発事業「辰巳ダム計画」の土木技術的問題点』(平成7年 7月)で述べている。

参考文献
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中 登史紀:「辰巳用水と兼六園」『石川の自然 第90号』,昭和61年3月(1986)
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土木技術者の味なはなし

 

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