日本国憲法を考えよう

つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、日本国憲法をそこはかとなく考えてみよう。

(その1) 平和憲法か
(その2)「日本は日本国憲法第九条を守れ」と
(その3)第九条のつづき、軍隊を保持していい
(その4)第九条第一項
(その5)当方が考える憲法第九条
(その6)「国権の発動たる戦争」について再び
(その7)悪い政府と良い政府の使い分け
(その8)憲法は国を縛るものか
(その9)日本国憲法は国を縛っていない
(その10)憲法は国を縛っていないが、九条が日本を縛ってきた
(その11)この情けない憲法が、世界に誇るべきすばらしい平和憲法になるのはなぜか
(その12)主権放棄条項の言い訳があって辻褄はあわせてある
(その13)憲法九条と日米安保条約はセットであるが
(その14)三島が死をかけて伝えたかったこと
(その15)九条について共産党はどう考えているか
(その16)九条についての追記
(その17)日本国憲法の前文について考える
つづく(日本国憲法を考えよう その2へ

(その1) 平和憲法か
 日本国憲法には、第9条があってその2項で軍隊を持つことも交戦権も否定しているので平和憲法だというわけだ。戦後、戦争がなくて平和であるのは憲法第九条があるからだともいわれる。
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」(第2項)
 一言でいうと、軍隊がないので戦争がなく平和だというわけだ。
 これは、消防署がなくなれば火事がなくなり、警察が無くなれば殺人が無くなるということと同じだ。
消防署と火事、警察と殺人の間に因果関係はないので、消防署があろうがなかろうが火事は起きるし、警察があろうがなかろうが殺人は起きる。
 軍隊を持とうが持たなくとも戦争は起きる。平和との因果関係はない。軍隊がなければ戦争で一方的にやられるだけである。敵対国から見れば、戦争の誘惑に駆られるので戦争憲法といえないこともない。
 だから、第2項だけを見れば、平和憲法ではなく、むしろ戦争憲法だろう。
日本国憲法を考えよう

日本国憲法を考えよう(その2)
「日本は日本国憲法第九条を守れ」と
中国、韓国、北朝鮮の連中は日本政府を非難している。「安倍は憲法を改正して戦争を企んでいる、安倍を許すな」と。
それはそうだろう。向こうの立場に立てば、対立する日本国が、おのれの手足を縛っている縄(第九条)を解こうとしているのだから、止めろと叫びたくなるのは当たり前だ。これまでのようにしかけることができなくなるからだ。
中国は尖閣、韓国は竹島、北朝鮮は拉致で、我が国は一方的にやられっぱなしだ。
いずれの国も一方的な悪さをしているという負い目があるだろうから、憲法改正をめざす安倍政権に畏怖を抱くのは当然といえば当然だ。

日本国憲法を考えよう(その3)
第九条のつづき、軍隊を保持していい
 トランプが、日本に対して核武装を容認する発言したことに、バイデンは「核武装を禁止した日本国憲法を我々が書いたことを彼は理解していないのではないか。」と批判した。
 現在の日本国憲法は、建前は日本国民の総意で作られたことになっているが、連合国の占領下であったので、憲法草案は、GHQのマッカーサーが部下に命じて1週間ほどで作らせたものである。(だから、英文が最初にあって、日本語に翻訳したものが日本国憲法だ。)

 マッカーサーは、日本国憲法をつくる際に、守るべき三原則を示した。その一つが、日本を武装解除するための原則(陸海空軍を持たない、交戦権もない、自衛の戦争も放棄するなど。)である。
日本を武装解除するために作られた「憲法第9条」であるので、核武装などできるわけがないのである。
 
 だが、自衛の戦争までも放棄することについては日本側も抵抗し、第2項で「前項の目的を達するため、」という文言を入れて、自衛の戦力は持つことができると解釈できる余地を確保して、第9条として成文化されている。
 第1項で規定する「侵略戦争」であれば駄目だが、「自衛戦争」であればいいということだ。

 そこで、日本政府の見解は、憲法上、核武装できるとしている。
「自衛のための必要最小限度の実力保持は憲法9条で禁止されているわけではなく、核兵器であっても、仮にそのような限度にとどまるものがあるとすれば、保有することは必ずしも憲法が禁止するところではない」という解釈が示されている。

 憲法第九条の規定で、「陸海空軍その他の戦力」を持たないとしているのだから、核武装を含めたすべての軍事力を持たないと解釈するのが当たり前ではなく、第2項冒頭の「前項の目的を達するため、」があるので、自衛であれば第2項の規定はあたらないので、自衛の戦力を持ってもいい、自衛の交戦権もあるということになる。
 
 現時点の日本国は、ハード(兵器と兵隊)を用意したが、ソフト(戦時の軍法と軍法で動く軍人)がない。戦闘場面で、指揮官は部下に「撃て」とは言えない。平常時の法律が適用されるので「撃て(人を殺せ)」というと殺人罪の教唆に該当する。実行した者と同じ殺人罪が科せられるからだ。「撃ってもいい」としか言えない。単に状況判断で殺人罪の教唆をしているわけではないからだ。
 共産党が自衛隊を「人殺し集団」と非難するのも、平時の法律しかなく、軍法がないからでもある。
自衛隊を自衛のための戦力「国軍」としても機能させるために、軍法を作らなければならないのではないか。

日本国憲法を考えよう(その4)
第九条第一項

 前回、「第1項で規定する「侵略戦争」であれば駄目だが、「自衛戦争」であればいいということだ。」と書いた。
第1項に「国権の発動たる戦争を放棄する」とあって、「国権の発動たる戦争」→「国家権力がする戦争」→「(悪い)国が(良い)国の領土を侵略する戦争」
 というニュアンスの解釈で、「侵略戦争」は駄目だが、「自衛戦争」であればよいとしたが、無理があるかな(?_?)

 第九条の第一項は、パリ不戦条約を下敷きに書かれたという。
パリ不戦条約の第一条は、「締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えないこととし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。」とあり、
 @ 国際紛争解決のための戦争をしない、
 A 国策としての戦争をしない、
 である。これを受けて、
日本国憲法第九条第一項は、「(省略)、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」として、
 @ 国権の発動たる戦争はしない、
 A 国際紛争解決するための武力の威嚇や行使はしない、
 である。
 Aについて、武力の意味を確認するために英文をみると、「force」となっている。「land, sea, and air forces」(陸海空軍)のforceであるから、「武力」は、「軍」である。「武力の威嚇や行使」は、わかりやすく言い換えると「軍の出動」までということにすると、軍と軍のぶつかり合いである「戦争」までいかない。@の「戦争」は駄目で、Aの「軍の出動」も駄目ということだ。

 ところで、「国権の発動たる戦争」の意味がわかりにくいので英文で確認すると、
「war as a sovereign right of the nation」とあり、「state」(統治するしくみとしての"国")ではなく、「nation」(人々のかたまりとしての"国")とあり、ある一かたまりの人々の主権sovereign right(領土、領民を守る権利)としての戦争とある。ということは、国土、国民を守る戦争、つまり、自衛の戦争も放棄することになっている。

 これに対して、日本文では、「国権の発動たる戦争」、国家権力、または国、あるいは政府がする戦争というように読める。だから、国民は良識があるが、国は悪いことするので国がする戦争をできないようにタガをはめておくが、日本国民は自らを守るための自衛の戦争はできることになるとも解釈できる。

 一方、英文では、(日本国民は凶暴だから)日本国民の主権を制限して戦争をできないようにタガをはめておき、自衛の戦争も駄目だというように解釈できるが。はてさて(=_=)


日本国憲法を考えよう(その5)
当方が考える憲法第九条

の「戦争の放棄」条項は、
第一項「国際紛争を解決する手段としての、武力による威嚇又は武力の行使と、相手国の主権を侵害する戦争は、永久にこれを放棄する。」
第二項「国民主権を守るために国軍を保持する。」
である。

 現在の憲法第九条第一項冒頭で、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」という修飾語がついているが、最後に「放棄する。」としても、「放棄しない。」と続いてもどちらともとれ、あまり意味がないので削除する。

 また、第2項の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」としては、肝腎の日本国民の主権も守ることができなくなるので当然、削除する。

日本国憲法を考えよう(その6)
「国権の発動たる戦争」について再び
 
 GHQの作った英文では、「war as a sovereign right of the nation」となっており、国民主権としての戦争(あらためて確認すると、国土/国民を守るための戦争)まで放棄することになっていて、日本国民がする戦争、自衛の戦争まで諦めろとなっている。ところが、日本文では、日本国民ではなくて、それとは違う国家権力が行う戦争という解釈ができる。言外に、日本国民は良いが、国家権力が悪いことしかねないという風に感じる。

日本という民主主義国が、民主的な手続きで作った日本国政府を悪いことをしかねないという摩訶不思議な色眼鏡で見ているような気がするのは、当方だけだろうか。

 中国や北朝鮮のような独裁としか思えないような国で、国家権力が悪いことをしないように、タガをはめるために憲法第九条をつくるのであれば理解できるが、わが日本国のような民主国家がこのような不信に基づいた規定を作っているのはどうしてだろうか。

 一番、わかりやすい解釈は、敗戦して戦勝国のシナリオを飲まざるを得なかったからだ。

 GHQが、日本国を統治するために、考えた対策はつぎのようなものだ。
 日本人全員が悪かったと責めると、不満の矛先がGHQに集中することになる。そのため、日本国民と日本国政府と分けることにした。悪いのは政府で、日本国民は騙されていただけで悪くないというものだ。そうすると、悪かったのは政府だ/軍部だと、国民の不満の矛先は、政府に向かうことになる。いわゆる、分断統治(divide and rule)で、内部で対立をあおり、弱体化させて統治する方法である。

 一方、当の日本人は、戦争に負けたのだから、戦勝国のいうことを聞かないといけないと考えた。この方針に、戦後のすべての日本人は従った。その人達が、この日本国憲法を作ったのだ。だから、国が悪い、国家権力が悪いという考え方が下敷きになっている。
 とすると、悪い国家権力がする戦争、つまり「国権の発動たる戦争」は放棄しなければならない、としてもすんなりと受け入れられることになる。
 実は、GHQが(凶暴と考えている)日本人の武装解除するための規定なのであるが。


日本国憲法を考えよう(その7)
悪い政府と良い政府の使い分け

いわゆる、戦後の良識的な日本人の考え方「悪いのは国家権力」で、この考え方で日本国憲法を見ると理解しやすい。
 第九条は、国は悪いことをするので国軍は持たない。

 第九条と関連しているのが、憲法前文である。
「日本国民は悪くない」、「国が悪い」としっかり、記述されている。
 前文に、「日本国民は、(省略)政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、」とある。
「日本国民」が主語で、「日本国民」が戦争しないと決意しているのではない、(悪い)「政府」に戦争させないと決意しているのである。
 この前文の文章につづいて、

※:「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」

 とある。
 ここでは、「国政」が主語で、民主国家の民主的な手続きでできて、国民に幸せをもたらす(良い)「国政」となっている。
 英文の日本国憲法では、いずれも「government」となっており、同じものである。

 日本文では、「政府」は悪いと書いてあるので、「政府」は良いと書けないので、「国政」は良いと書き分けている。矛盾していない。

 一方、英文の方は、矛盾している。これは当然である。
国民が民主的な手続きで作った政府は、良いも悪いもなにも、良いと信じることなので、※の規定がすべてである。

 民主主義とは、民主的な手続きで政府を作れば、良い政府ができると考えて信ずることだと思うが、民主的な手続きを踏んで作った政府でも悪いとすると、民主主義国家の根幹が揺らいでややこしくなる。
 戦後、GHQが分断統治の考え方で、不純物の芽を持ち込んだので、いまだに日本の政治は不安定である。


日本国憲法を考えよう(その8)
憲法は国を縛るものか

 憲法に関して、不純物の最たるものは、「憲法は国を縛るもの」という考え方である。縛らないといけないと考えるのは、「国が悪いことをする」と考えるからだ。

 日本は民主主義国家で、「日本国民=日本国政府(民主的な手続きで作ったもの)」と考えてよいから、国を縛る必要もない。むしろ、「憲法は日本国民を縛るもの」としておいた方がいい。冷静な時は判断を誤りにくいが、非常時には一時的な興奮で冷静さを欠いて誤った判断をしかねないのであらかじめタガをはめておくというという意味である。

 そもそも、「憲法とは何か」。当方の考えはつぎのとおり。
法治国家として法律を整備するために、基本となる国のあり方、方針を決めておかないと一貫した法律を整備することができない。法律のもとになる取り決めが「憲法」である。こう考えるのが最も理解しやすいと思う。

 とすると、「国の権力を制限するために書かれたもので国家が守るべきものだ。」、いや「国民が従う規範だ。」、「誰に向けて書かれて誰が守るべきなのか。」というような議論は必要ない。

 国のあり方、方針ということだから、これを実現しようとする国全体の目標だ。目標を決めれば、いやだの何だのという人達がいても、その目標に向かう努力を強制しなければならないこともある。それを法律できめる。

 国を縛るという考え方は、欧米から来ているらしい。
「近代憲法の歴史が示す答えは、憲法とは国家権力を制限するために国民が国家に突き付けたルール、というものだ。憲法はいわば、国民が国家に向けて書いた命令であり、それを守るのは当然国家権力であって、国民一人ひとりではない。」(朝日新聞2004.11.2)

 横暴な国王の権力を制限するために国民が国王に突きつけたという歴史的な背景から、このような考え方の憲法がつくられているらしい。欧米の事情であり、日本は独自の考えでよい。日本では、武士が政治権力を握って以来、天皇が持っているのは政治的権威であり、権力を制限するための憲法など必要ない。


日本国憲法を考えよう(その9)
日本国憲法は国を縛っていない

 縛っているというのは、九条信者(日本が平和であるのは軍隊を持たないからだ)が、九条を改正させないために使っている方便にすぎない。本当に、日本国憲法で国を縛るべきだ、とはとても考えているように思えない。

現実に、白昼堂々と憲法が破られている。

第八十九条 公金は、(省略)公の支配に属さない教育の事業に対し、これを支出してはならない。
とあるが、私立大学へ毎年、莫大な公金が支給されている。
第九十八条 この憲法は、国の最高法規であって、(省略)国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
 第九十九条 (省略)公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
 とある。

 89条に違反した支出は、98条で効力を有しないとしているので、国へ返金させるべきであり、義務を果たしていない公務員は99条の憲法違反をしている。

 白昼堂々と、憲法を破られているにもかかわらず、放置されたままである。日本国憲法で国を縛っていないことは、違反したからといって罰せられないことから明白だ。

 なぜか。憲法は、国のあり方、方針をまとめたものに過ぎないからだ。


日本国憲法を考えよう(その10)
憲法は国を縛っていないが、九条が日本を縛ってきた

 九条は、国土と国民を守らず、日本国民の主権を放棄した条項である。
 ほかの条文については、国をめぐる事情の変化で破らざるをえないのであり、破ったところで特に問題にされていない。

 国土を守れなかった事例は、昭和26年に韓国が李承晩ラインを設定して竹島を奪われたことである。
 国民を守れなかった事例は、昭和52年9月の久米裕氏のさんに始まった北朝鮮による日本人拉致※1 である。
 国民主権(国土、国民を守る権利)を放棄しているので、みすみす奪われて何もできなかった。

 建前は、日本国民の総意※2 で作られたことになっているが、このような条項を総意で作るほど間抜けな国民だったのか。

 占領軍のGHQの意図で強制されただけだ。
 国のあり方、方針をつくることに、日本国民が関われないという情けないことになってしまった。

※1:「宇出津事件」は、1977(昭和52)年9月19日に発生した日本政府認定拉致事件第一号である。三鷹市内で働いていた警備員の久米裕さんが、在日朝鮮人の男に手引きされて、能登町宇出津の海岸、通称「舟隠し」と呼ばれる地点から、真夜中に北朝鮮工作員の船に身柄を引き渡しされた事件である。警察は、手引きした在日朝鮮人を拘束し、取り調べをし、暗号表や通信機器を押収したにもかかわらず、スパイ防止法など取り締まる法律がなかったなどの理由から、無罪放免している。また、海上保安庁も不審船の存在を確認していたらしいが、無策に終わっている。このような対応が、結局、同年11月の新潟の横田めぐみさんの拉致を招いている。領海侵犯した不審船を武力で拿捕あるいは撃沈できなかったためだ。

※2:「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名御璽
昭和二十一年十一月三日 内閣総理大臣 吉田茂 (以下省略)


日本国憲法を考えよう(その11)
この情けない憲法が、世界に誇るべきすばらしい平和憲法になるのはなぜか

 もう一度、九条を確認しよう。
 英文と日本文を掲載する。見やすくするために英文と日本文の段落を合わせて区切る。

CHAPTER II : RENUNCIATION OF WAR
Article 9:
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order,
the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph,
land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

第二章 戦争の放棄
第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、
陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。

 まず、最初に目につくのは、チャプターのタイトルである。
「戦争の放棄」とあるが、「戦力の放棄」ではないところがミソである。戦争を放棄するというと、いかにも、これからは平和になると思えてくる。仮に、「戦力の放棄」では、戦争になったら、どうするのかという問いに答えないといけなくなる。条項の中身は、「戦力の放棄」であるが、種々の美辞麗句で包んで「戦争の放棄」とすると、答えは平和しかないような気にさせられる。

 実は、戦争になったら、どうするのですか、という問いも想定のうちで、その答えが書いてある。
憲法前文に書いてある。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して(trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world)」われわれの生存を保持するとしている。生存を否定していない文章だとすると、生存を肯定するには、生存を脅かす存在はいないのであり、生存を脅かさない「平和を愛する諸国民」しかいないということになる。だから、絶対に戦争はないのである。

 命を預けてもいいとするほど周りの国々を信頼しようというのだから、これ以上の倫理的に崇高な考えはないだろう。ただ、国々の関係は、倫理で動いているわけではなく、国益で動いているだけで、倫理的な条文を書き込んでも、国との関係では非常事態で何の意味もなさない。

 この条項は、前に書いたように、軍の出動もしない、軍のぶつかり合いもしない、そして、軍を持たない、である。前文では、戦争は起きないとしている。

 結局、日本国憲法の姿を整理するとつぎのようになる。
@「戦争は起きない」、A「戦争は起きないはずだが、起きても戦争をしない」、B「戦争しないので、戦う力も持たない」、C「戦う力も持たない上に、戦うという意志も捨てる」と4重にも、日本国が相手と戦うことに歯止めをかけている。
これだけ戦わないと自縄自縛しているのだから、我が国を取り巻く国々からすると平和憲法に違いない。

追記:
日本文の「その他の戦力」は、英文では「other war potential」となっている。
日本語の「戦力」というと、戦うための武器などの限定的な意味とれる。一方、英文の「war potential」は、戦いに関わるすべて、戦争を続けるための資金力、財政力まで含まれる、さらに、現時点で達成していなくとも将来的に到達する戦争遂行能力という意味で、「その他の将来的戦争遂行能力」ということになる。すべて何もかも駄目で、蓄財すると、軍資金かということにもなる。


日本国憲法を考えよう(その12)
主権放棄条項の言い訳があって辻褄はあわせてある

 憲法の前文に
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とある。
 まわりの国々の人達は平和を愛しているから、日本に対して悪いことを絶対にしてこないので、命も預けてもいいということにしようというわけだ。

 同じ国民同士でも、すべて信頼して命まで預けようとまでは考えない。同じ国民でも信用できない連中もいるから、我が身の命を守ってくれる警察官が必要だ。
 考え方、生き方、何もかも違うと思われる人達を百パーセント信用して、我が身の命を保持しようなどとは誰も考えないし、このような結論にはならない。
 このような憲法を自ら創るわけはない。

 昭和26年にサンフランシスコ条約を結んで、独立した後、自前の憲法を作るべきであったが、吉田茂は、憲法を改正して日本国軍を創設する代わりに、憲法をそのままにして日本国軍を創設せず、日米安保条約を同時に結んで日本の守りを米軍に依存することにした。それ以来、自縄自縛に陥り現在に至った。

日本国憲法を考えよう(その13)
憲法九条と日米安保条約はセットであるが

 吉田茂は、武装解除された日本の主権を守るために、日米安保条約を締結して米国に依存する道を選択した。

 これで国土を守れたか
 前述したとおり、昭和26年の李承晩ラインを設定されて竹島を奪われてしまった。
この時点で、日米安保条約は結ばれていなかったが、結ばれていたとしても、日本海の小さな無人島のことで、米国の国益とは無縁であるから、動かなかっただろう。米国は、竹島を日本領土と明言していたが(ラスク書簡)。

 これで国民を守れたか
 北朝鮮による日本人拉致とわかっていたことが、阻止できなかった。
竹島のことと同様に、日本の問題であり、米国の国益とは無縁である。

 尖閣列島を守れるか、すでに奪われているのではないか
 中国は、1992(平成4)年、領海法※ を制定して、尖閣列島(中国呼称:魚釣島)を中国領土と決めた。
地図上で、中国が日本から領土を奪った瞬間だ。日本は、国土を奪われて何か反発したか。反発していない。主権も主権の意識も放棄しているからだ。
 日本国外務省は、中国国内の法整備の一環という対応だった。

 九条の制約で、中国船が領海侵犯をしても拿捕も撃沈もできない。
 これをよいことに、中国は、日本の領海の侵犯を繰り返しながら、日本漁船を閉め出し、周辺海域で中国漁船に操業させている。これを日本は阻止できない。すでに奪われたも同然だ。

※:「領海法」第二条
中華人民共和国の領海は、中華人民共和国陸地領土と内水(内海)に隣接する一帯の海域である。中華人民共和国の陸地領土は、中華人民共和国の大陸およびその沿海島嶼を含み、台湾および釣魚島を含む附属各島、澎湖列島、東沙群島、西沙群島、中沙群島、南沙群島および中華人民共和国に所属する一切の島嶼を包含するものとする。中華人民共和国の領海基線は陸地に沿った水域をすべからく中華人民共和国の内水(内海)とする。


日本国憲法を考えよう(その14)
三島が死をかけて伝えたかったこと

 三島由紀夫は、憲法九条について大変憂慮していたということをつい最近まで知らなかった。九条二項について「日本が死ねということか」という感想を持っていたという。

 1970(昭和45)年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後、自決した。当方は、市ヶ谷に程近いところで学生生活の最終学年を迎えていた時で、その異様な出来事に直面してたいへん驚いたことを鮮明に覚えている。

 決起を促された自衛隊の人達の反応は、ヤジと怒号だけだったようだ。
三島の過激な行動は、当時の当方の理解の外であり、多くの日本人も、「民主的秩序を破壊する」、「気が狂ったとしか思えない」、「常軌を逸している」と非難した。
  
 三島の自決から約半世紀を経て、国土、国民を守ることができない、骨抜きにされた無力な自衛隊の姿が明らかになりつつある。
 三島が自己の死をかけて伝えたかったことは何か。

 GHQの日本の弱体化のための占領政策で、自分の身を守る動物的本能までも捨てることを強要され、人権教育が効き過ぎてすべての体罰が悪になり、精神的にも肉体的にも骨無しの日本と日本人になったことに対する諌言だった。


日本国憲法を考えよう(その15)
九条について共産党はどう考えているか

 日本共産党は最近では若い女性を表看板にしてソフトなイメージ戦略をとっているが、その存在はかなり危険だった。米国では、非合法の存在であり、日本も戦前は、非合法だった。世界で同時に共産主義革命を起こすために、ソ連の国際共産主義組織の日本支部として発足している。戦前の治安維持法は、日本が赤化しないために用意された法律だ。朝鮮戦争の時期までは、後方攪乱のための過激な行動を取っていたらしい。過激派組織の元祖という存在だ。

 この日本共産党が、GHQの置きみやげの一つである。日本を弱体化させるために取られた分断統治政策の一環である。つまり、日本共産党は、日本を弱体化するためのしかけである。

 共産党は、九条についてどう考えているのか。
思考するときに、まったく対立する意見を見ると理解が容易になる。

共産党は自衛隊どうする?(しんぶん赤旗日曜版2017.6.11)
「日本共産党は、自衛隊は9条とは相いれない、憲法違反の存在だと考えています。だからといって日本共産党は、ただちになくすことは主張していません。
徹底した外交努力を通じて周辺諸国と平和友好関係を築き、国民の圧倒的多数が「もう自衛隊がなくても安心だ」という合意が成熟したところで初めて、9条の完全実施に踏み出すというのが共産党の方針です。
かなり長期間にわたって自衛隊と共存する期間が続きますが、その期間に万一、急迫不正の主権侵害や大規模災害などがあった場合には、国民の命を守るために自衛隊に働いてもらう――この方針を党大会で決めています。
憲法を守ること、国民の命を守ること――日本共産党はこの両方を真剣に追求していきます。
いま政治に求められるのは、憲法を変えるのではなく、9条がめざす方向に現実を近づけていく努力ではないでしょうか。」

共産党の主張は、要約すると、
@自衛隊は憲法違反→ Aだが、憲法九条を変えない→ B外交努力で平和を実現した後、自衛隊廃止→ C憲法九条が残る
である。

 現在、憲法違反だが、いずれ、これを解消する、だから、この憲法は守るというわけである。
このフローに、改憲の考えを入れるとつぎのようになる。
@自衛隊は憲法違反→ (A憲法九条を改正)→(A'自衛隊が合憲)→ B外交努力で平和を実現した後、自衛隊廃止→ C憲法九条を戻す

 スタートも最終の到達点も同じである。途中の自衛隊が、合憲か、違憲かだけの違いである。
 自衛隊を合憲の存在として認めるか、認めないかだけの違いである。
 認めないという意味は、日本の弱体化だけだ。日本が強くなると困るのか。

 また、共産党の主張に「憲法を守ること、国民の命を守ること」との付け足しがあるが、
 違憲の自衛隊を持っているので、憲法を守っていない、
 武力の行使できない、無力な自衛隊のため、国民の命も守っていない
 ので、何の説得力もない。
 さらに、
「徹底した外交努力」というが、対立する相手国は、武力と外交の両面作戦で出来ているのに、こちらは外交努力だけ、話し合いだけというように聞こえるのでこれも全く説得力は無い。


日本国憲法を考えよう(その16)
九条についての追記

 憲法の条文に、「国土、国民を守ること」に加えて、「世界平和のため」、国軍を保持するという意見がある。国連の平和維持活動などを念頭に置いている文言だろうが、これは止めた方がいい。

@ 日本人に、世界平和のために国軍(武力)を持つという考えがない
A そして、「武力による威嚇又は行使」の条項にも反する。

 @について、日本人が持たない考え方であり、なじむとは思えない。
 「世界平和のために」祈るとか、親善交流するなどということは、争いごとは好まない民族性から受け入れられる。だが、日本以外の関わりないところの武力紛争を鎮圧するために日本の総意として武力を持たなければならないと考えるだろうか。地球の反対側で乱暴な国があってこれを制圧するために軍隊を用意しておかねばならないなどと考えない。
 誰のためともわからない人々のため、世界平和のために命をかけて戦う気がするだろうか。大体において、どちら側が正しいのかもわからない。双方がいずれも正義だと信じて争っていることがほとんどではないか。

 米国のような、世界の警察官を名乗る国であれば別だろう。
 米国は、キリスト教を信じている人々が創ったキリスト教国家である。キリスト教というのは、この世界に唯一無二のゴットだけが、世界を救い、世界の人々を幸せにできるということを信じる教えだ。よその神様は偽物で信じると地獄へ堕ちるのだそうだ。キリスト教のゴットだけが、世界平和を実現できるのであり、米国がその役割を担っているという論理で動く米国軍は世界平和のための軍隊だ。悪く言えば、お節介な宗教による、お節介な国の軍隊であるが。このような信念で創られている国軍であれば、「世界平和のために国軍を保持する。」でいいと思うが。

 日本は違う。侵略(相手国の主権を侵す)する気もないし、軍隊を国外に派遣して紛争を解決する気もない。

 ただ、国連の一員として、国益上、おつきあいを断るわけにはいかないから、その限りにおいては、日本国憲法にかかわらず、軍隊を国外に派遣して紛争の解決に協力しなければならないということだ。おつきあいは理屈ではない。理屈ではないおつきあいのことまで、日本国憲法に書き込むとややこしくなる。

 国連のような国際的組織は、世界平和のために、話し合いで解決できないことが多くて、ある程度の武力の使用もやむを得ない、武力行使できないとあまりにも無力であるということを経験から学んで、武力による実力行使もすることになったようだ。


日本国憲法を考えよう(その17)
日本国憲法の前文について考える
(第一段落)
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
(第二段落)
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
(第三段落)
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
(第四段落)
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

以上であるが、一言でいうと、
第一段落は、国民に主権があるということ、
第二段落は、
「平和」が4回出てくる。「平和」を四回唱えると、世界が平和になるという意味で、あまり現実的な意味はないm
第三段落は、いづれの国にも主権があるということで、言うまでもないこと、
第四段落は、誓いますといっているだけで、あってもなくてもいい。
ということで、日本国憲法前文は、第一段落だけでいい。



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