日本国憲法を考えよう(その2)

つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、日本国憲法をそこはかとなく考えてみよう。

(その18)そもそも憲法が要るのか、わが国には要らない
(その19)要らないがもし創るとしたら、
(その20)第三章 国民の権利と義務 第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
(その21)日本国憲法の人権


(その1)から(その17)までは、ここまでは、日本国憲法を考えよう(その1)へ
(その1) 平和憲法か
(その2)「日本は日本国憲法第九条を守れ」と
(その3)第九条のつづき、軍隊を保持していい
(その4)第九条第一項
(その5)当方が考える憲法第九条
(その6)「国権の発動たる戦争」について再び
(その7)悪い政府と良い政府の使い分け
(その8)憲法は国を縛るものか
(その9)日本国憲法は国を縛っていない
(その10)憲法は国を縛っていないが、九条が日本を縛ってきた
(その11)この情けない憲法が、世界に誇るべきすばらしい平和憲法になるのはなぜか
(その12)主権放棄条項の言い訳があって辻褄はあわせてある
(その13)憲法九条と日米安保条約はセットであるが
(その14)三島が死をかけて伝えたかったこと
(その15)九条について共産党はどう考えているか
(その16)九条についての追記
(その17)日本国憲法の前文について考える


日本国憲法を考えよう(その18)
そもそも憲法が要るのか、わが国には要らない

 道徳・倫理だけで国を安定的に運営できないので、法のもとに国造りをしなければならないとすれば、法律の法律という位置付けの憲法があれば、骨格がしっかりした法治国家になるということであろうか。

 といったところで、わが国に、国のあり方・理念を決めるための憲法などというものが必要なのだろうか。いわゆる実定法だけでいいのではないか。英国には、成文の憲法というものが無いらしい。

 明治になって、伊藤博文らが憲法をつくらざるを得なかったのは、日本が西洋との不平等条約を解消するために、西洋と同じような仕組みを作る必要にせまられてのことと聞いた。大日本国憲法は、世界標準に合わせて、西洋の価値観を急遽、取り入れて急拵えで作ったということだ。目的は果たしたとしたら、無くてもいいということになる。

 わが国は二千年の歴史があって、五穀豊穣、国家安寧を祈念する大神主の天皇という特別の存在と大御宝の民がいて、世界にも稀な安定した社会を形成して維持してきた。このような国のあり方があり、「和を持って尊としとなす」、「親に孝養、兄弟仲良く、夫婦相和し、朋友相信じ、」といった理念ができあがっているのではないだろうか。

 われわれは憲法というものを後生大事に考えているが、成文の憲法として掲げなくとも、歴史の経過の中で積み重ねてきた判断の集積の上に、国のあり方・理念をすでに獲得しているのではないか。となると、日本には要らない。


日本国憲法を考えよう(その19)
要らないがもし創るとしたら、

 憲法を基にして法治国家とする目的は、国を安定的に運営することであり、この目標を見失ってはもともこもない。憲法に縛られて身動きできず、国を不安定にするというのであれば本末転倒であるから、そもそも論も踏まえた上で、根本のところは考えておきたい。

 現在の日本国憲法は全く異質だ。GHQが作ったもので日本国民が作ったものではない。明らかに、日本を縛るためのものだ。安定した社会を壊そうとする輩によって作られたといっても過言でないだろう。憲法によって、日本人が縛られ、国のあり方、理念が歪められて不安定にしてきた面がある。だから、新たな憲法は、日本を縛り、不安定にするものであってはならない。

 現憲法の国土、国民を守ることができない規定などは論外である。
また、日本の国を安定的に維持してきた最大の要因である日本国皇統を不安定にさせるような規定を憲法に書き込むようなことがあってはならない。

 法治のしくみは、国を安定的に運営するためのものだ。
 すでに二千年以上にわたって安定的に運営してきたものを、新しい西洋の価値観とはいえ、現代人の浅知恵であれこれ書き加えてつくられた憲法でこれを不安定にするべきではない。

 女性天皇、女系天皇、女性宮家を否定するのは男女平等の考え方に反している、などという主張がある。日本の皇統のあり方を変えて国を不安定にするものだ。
 憲法は国の運営を安定させるために設けざるを得ないものであり、これが国の運営を不安定にさせるのであれば、本末転倒である。


日本国憲法を考えよう(その20)
第三章 国民の権利と義務
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。

 第十一条の「基本的人権」は、英文で、「The fundamental human rights」とある。fundamental(基になる)を除くと、human(人)のrights(いくつかの権利)、いわゆる「人権」である。
 第三章のタイトルにあるように、権利と義務の両面があってバランスして成り立つと考えると、「The fundamental human duties」というものが言外にあるのだろう。

 国民の権利をすばらしく謳い上げるためには、これを補うための、同じ重みの義務があってバランスして成立する。

 例えば、「第二十五条 すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とあるが、これを担保するために、「第三十条 国民は、納税の義務を負ふ。」があり、納税された財源で、国民の生活保護等に当てることができてバランスする。

 第三章で権利としてあげられているのは、
 「生命、自由及び幸福追求に対する権利」、「公務員選定、罷免の権利」、「夫婦が同等の権利」、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、「教育を受ける権利」、「勤労の権利」、「勤労者の団結する権利」、「団体交渉そのたの団体行動をする権利」、「財産権」、「裁判を受ける権利」、「弁護人に依頼する権利」、「住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利」、「公開裁判を受ける権利」、「証人を求める権利」
 である。
義務としてあげられているのは、
「保護する子女に普通教育を受けさせる義務」、「勤労の義務」、「納税の義務」
 である。
 これでバランスしているのかな。


日本国憲法を考えよう(その21)
日本国憲法の人権

人 権の中身であるが、憲法から、「人権」の定義を見ると、
the fundamental human rights = the freedoms and rights
であり、
 「いくつかの自由」と「いくつかの権利」
である。
 権利はすでに挙げたので、「いくつかの自由」を憲法第三章から抜き書きする。
 「思想及び良心の自由」、「信教の自由」、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」、「居住、移転及び職業選択の自由」、「外国に移住し、又は国籍を離脱する自由」、「学問の自由」
 である。

 この「人権」を担保するものとして存在するはずのものは、
the fundamental human duties = the no freedoms? and duties
 で、「いくつかの不自由」と「いくつかの義務」
である。
 個人個人が勝手に自由と権利を振り回されては国が成り立たないので、「いくつかの不自由?」があるはずで、相当するところを抜き書きする。
 「国民の不断の努力」、「(自由及び権利を)濫用してはならない」、「(自由及び権利を)常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」
 である。

 整理してみると、現日本国憲法は、「権利と自由」が過剰で、「義務と不自由」が過少のような気がするがどうだろうか。戦後、日本国憲法を始めとして民主教育と称して、過剰な権利と自由が日本人の心に持ち込まれたのではないか。

 この前、おもしろい話を聞いた。
 先生が、遅刻した生徒に「学習権の放棄だ」とか、授業中に騒いでいる生徒に「他の学習権を侵すことだ」と説明するのだという。何か、おかしい? と感ずるだろう。一言で言えば、倫理・道徳の範疇に、権利・義務の法的な概念を持ち込んでいるからだ。「他人に迷惑だから、止めなさい」程度のことを「学習権の侵害など」と言うと、権利意識過剰人間が生まれてギスギスした人間関係になるような気がするが。
 このような変な先生が現れたのは、戦後の憲法に代表される人権教育が原因ではないのか。

 常日頃、不愉快に思っていることであるが、近代的で安定的な国づくりのために西欧の近代思想を取り入れたつもりであったが、過剰に取り入れることで、周りの国々から付け入れられる外交カードにされている。
 いわゆる従軍慰安婦問題も、単にプロフェッショナル キャンプフォロアーだったビジネス女性を人権侵害の被害者に仕立て、日本人全体がいわれない濡れ衣を着せられてしまっている。これを日本人が容易に払拭できないのでは、過剰な民主教育でよくわからない人権意識を過剰に植え付けられてしまったことも大きな要因である。そこに周辺国から、つけ込まれている。


日本国憲法を考えよう(その22)

日本国憲法を考えよう(その23)

日本国憲法を考えよう(その24)

日本国憲法を考えよう(その25)



添付資料
 小澤俊夫氏が警鐘「共謀罪で言論の息の根が止められる」(日刊ゲンダイ,2017.4.3)

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