「読書」:要点と感想
『技術と人間の倫理』
加藤尚武著(文庫版350頁)
NHKライブラリー、NHK出版、定価:1,100円
内容:技術者が有すべき倫理について
要点:
・現代の私たちが直面しているのは、ただ自然現象を説明するだけの科学ではない。また自然の法則を、自然界の秩序をゆるがさないように、自然がいつも元通りになるような限度で利用するという、謙虚な技術ではない。臓器を移植し、試験管のなかの受精卵を人間の身体に入れなおして産ませるような、自然の世界ではありえないようなことまで可能にする技術である。ある意味では、自然が「ここまでは人間の侵入を許すが、ここから先はダメだ」と定めた限界を超えるのが現代技術の特質である。
・21世紀の課題は、科学技術と人間性が調和できるかどうか、もしも科学技術が人間性に調和できないのなら、人間は人間性を捨てることはできないから、科学技術を捨てるよりほかにない。
・人間の科学技術は、大きな自然界のなかの秩序に呑み込まれてしまうようなものではなくなった。だまって放っておけば、自然のバランスそのものを破壊する可能性を秘めている。自然そのものに内在するバランスによって、これまでは人間性のあり方そのものが規定されてきた。自然のありかたに対する科学技術の位置づけが変わることで、この人間性と科学技術の関係は、改めて問いなおされなくてはならない。
・科学技術と人間との関係について基本的に三つの立場がある。
第一の立場は、肯定的な立場である。
人類が幸福に生きることができるのは科学技術のおかげである。今後も科学技術を限りなく進歩させていかなくてはならない。17世紀のフランシス・ベーコンの思想で代表される。
第二の立場は、否定的な立場である。
科学技術は恐ろしい。これ以上の進歩を許してはならない。ハイデガーはこの立場にもっとも近い考え方がある。
第三の立場は、限定的な立場である。
科学技術の開発は今後も続けなくてはならない。しかし、科学技術を正しい目的のために役立つように制限して利用することが大切である。どのようなすぐれた技術も無制限の利用は許されない。正しい利用のための倫理基準が必要だ。二十世紀の七十年代からスタートしてだんだんに体制が整えられていくだろう。
・印刷術、火薬、羅針盤を三大発明と呼ぶ習慣は、ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』の文章から生まれた。「印刷術は学問において、火薬は戦争において、羅針盤は航海において、全世界の事物の様相と状態をすっかり変えてしまって、そこから無数の変化がおこった。」。思想を要約すると、@人類の普遍的な利益となり永遠に人類のためになる A人間世界を大きく変え、文明の進歩の原動力となる B迷信に惑わされず、事物をありのままにみることで真理の認識ができる C健全な理性と信仰の導きで舵をとるから、邪悪と逸脱におちいる心配はない。
・文明の適正規模、文明の進歩という観念のなかには、バランスの目安がない。もっと機械化しよう、もっと大量生産をしよう、そうすれば人間の生活がもっとよくなる、もっと、もっと、一辺倒の思想が進歩主義なのである。
・どこでバランスをとったらいいのだろう。文明の適正規模とはなにか。それを考察したのが、シューマッハーである。彼は「スモール・イズ・ビューティフル」と主張した。
・「技術の水準を<仕事場当たりの設備費用>で定義するならば、典型的な発展途上国の土着技術は――象徴的にいうと―― 一ポンド技術、他方、先進国の技術は一千ポンド技術と呼ぶことができる。両者の間の溝は非常に深く、一方から他方へ跳び移ることはとうていできない。現に発展途上国が一千ポンド技術の導入に努めているが、その結果、例外なく一ポンド技術をまたたく間に亡ぼし、現代風の仕事場ができる前に在来の仕事場を消滅させ、貧しい人たちをいっそう絶望的で無縁の状態に追い込んでいる。いちばん助けを必要としている人たちを効果的に助けるには、一ポンド技術と一千ポンド技術の中間の技術が必要である。それを、これまた象徴的に百ポンド技術と呼ぼう。」
・進歩の思想そのものがベーコンからコンドルセ、エンゲルスへと発展してきている。印刷術や羅針盤や火薬のおかげで世界が変わったという思想から、科学的発見によって人間が直面する問題を技術的に解決する可能性は無限だという思想にまで発展してきている。
・シューマッハーの「適正規模論」にシステム論が欠落していた
システム論が抜けているので禁欲主義に逃げ込んだのか、禁欲主義に世界を導き入れようとしてシステム論を避けたのか。いずれにせよ「スモール・イズ・ビューティフル」とは、システム論を欠いたままで規模の適正の判断を下したために「小さければいい」という一面的な見方から、シューマッハーが抜け出せなくなったことを典型的にあらわす標語である。『スモール・イズ・ビューティフル』が世界中の人々に読まれたのは、だれもが科学技術の規模が限りなく増大していくことに不安を感じていたからだろう。
拡張される科学や技術について、その目的の倫理性と過程の安全性についてチェックするシステムが存在しなかった。科学技術から生まれた自然破壊などの否定的な結果を見ると、科学技術開発の自由を制限し、人間文化のこれ以上の科学化を止めさせて、科学文化を小さな規模のものにした方がよい、「スモール・イズ・ビューティフル」という意見がでている。これは技術否定の道である。「科学技術の進歩が善である」と言う肯定が逆転して、「科学技術の不気味な増大が人間疎外を生み出す」、要するに、「科学技術の進歩は悪である」という否定になる。
・環境倫理学が掲げる主張
T 自然の生存権の問題−人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があるので、勝手にそれを否定してはならない。
U 世代間倫理の問題−現在の世代は、未来の世代の生存可能性にたいして責任がある。
V 地球全体主義−地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた世界である。
・ガイドライン方式とブレイクスルー方式
エネルギー資源が枯渇しかかったとき、どのような解決方法があるだろうか。ガイドライン方式というのがある。世界全体で使用量の制限をする。各国の死活問題で大変な葛藤が生まれるだろう。しかしあるレベルまでいけば、だれも反対できないような普遍的正義に到達するかもしれない。規制のための普遍的基準を作るという対処は、倫理的対処と言ってよい。技術的ブレイクスルー方式というものがある。さまざまな問題を技術的に克服していくものである。だれだって技術的ブレイクスルーの方がよいと思うだろう。倫理的なガイドラインは、価値観の多様な世界ではコンセンサスが得られない。結局は一方的な強制になってしまう。技術的ブレイクスルーなら、だれも文句を言わない。技術には事実判断が基礎にあるから、客観的な解決が可能になる。技術をこのように見ることが、ベーコンの哲学であり、鉄腕アトムのヒューマニズムだった。技術は人類の普遍的な利益に奉仕する。
・自然科学と人文科学が分裂するようになったのは、進歩する科学的な真理と宗教的な永遠の真理を分けて考えるようになった近代文化の特質である。現代の文化のなかで科学知識と人間性についての知識の接点が求められている。科学技術が、人間性と無関係にひとり歩きすると危険な場合があることも確かなのだ。それなのに、私たちの文化は、この両者の接点を作ろうと努力してはいない。
・中間技術:都市の規模の適正さは、安全、輸送、通信などのシステムと人口の関係で決定されるという定石が忘れられて、五十万人が上限だと言う素人判断が押しつけ、されているだけである。
・近代は、それを生み出した科学技術とともに、全面的に否定できるようなものではない。むしろ大事なことは、技術が歴史を変える力を持つことが明らかになってきたときに、その方向付けをしっかりする、舵取りを間違えないということである。
・規格化と大量生産の始まり、印刷術と火薬と羅針盤だった。
・科学技術の全面否定が、なにか「人間性の回復」というようなスローガンとむすびつくようなそぶりを、、、
感想・ポイント:
科学技術の発展を手放しで喜べない課題が積み重なってきた。巨大化し、進歩する科学技術の本質についての解説がなされている。問題解決のために、人間の倫理が重要である。技術の分野は分化、専門化が進み、現代は専門家の時代である。学問や文化の違った領域の間に橋渡しをする専門家がいないと人間の文化がばらばらになってしまう。対立した議論がかみあっていないことが多い。倫理は橋渡しをする通路の一つだろう。
平成13年5月3日
中 登史紀
トップページへ戻る